続 渡慶次の歩み
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第7章 むらづくり―各種団体の活動―

第3節 渡慶次婦人会

1 渡慶次婦人会の歴史

 
 (1) 婦人会の発足
    −戦前の婦人の生活−
 1914年(大正3)に読谷山村婦人会が誕生した。沖縄において最初に村婦人会が結成された地域といわれている。当時の知花英康村長が会長を務め、運営がなされたが、知花村長は次のように述べている。
 「それまで、沖縄の婦人の会合としては、ただ愛国婦人会といって県庁の高位高官の夫人や那覇の金持ちの婦人たちが、お正月に県会議室で行われる新年宴会に着飾って出席するぐらいのもので、婦人会というものはなかった。それで読谷村に婦人会を作ろうと思い立って、まず規約を作り、村の婦人たちが自分でその組織を運営できるまではと自分が村の婦人会長をかね、各字婦人会は区長が世話を見るということにして出発した。そして、婦徳(ふとく)の昂揚(こうよう)、教育、産業、風紀、衛生といったテーマをとりあげ、社会教育活動を盛んに行ったところ、県庁でもその成績を認めて、全琉各村に対して特に県訓令を発して、婦人会の設立を奨励したのである。」*1
 沖縄の義務教育が他県並みに軌道に乗ったのは、明治の終わり頃だといわれているが、農村などでは「女に学問はいらない」という封建的な社会の中で婦人たちが独自で組織し、会を運営していくということは大変困難なことであった。しかし、村内の生活環境の改善、また子弟の教育等に婦人の力が必要であるとのことから村婦人会の結成、そして各字へ行政側より積極的な働きかけがなされたのである。
 当渡慶次においては、同1914年(大正3)に18歳以上48歳までの男女で組織する青年会が発足している。俗に「ニーセーズー」と呼ばれ、字の全ての行事や風紀の取り締りなどを行っていた。その後、1918年(大正7)12月に当時の与那覇蒲区長(後白堂(クシシロー))の働きかけで、青年会より青年団と婦人会が分離し、婦人会の責任者として玉城※※(東勢頭(アガリシール))を推薦し結成となった。その年は年末のため活動には至らなかったので翌年から婦人会としての実際の活動が始められた。
 幹部8名を推薦し、その中から会長、会計を推薦し、さらに会員の中より書記を選出して役員を決定した。初代会長には山内※※(前之上地(メーヌイーチ))、会計に与那覇※※(西白堂(イリシロ)ー)、書記に玉城※※(西勢頭(イリシール))が推され、青年団の棚原※※書記(徳嶺(トゥクンミ))の指導のもと運営にあたった。16歳より婦人会員となり、加入金として10銭を納め、また会員よりそら豆を徴収してお金に替え、運営資金を捻出していた。
 自給自足の生活の中、誰もが朝から晩まで働いていたが、特に婦人は畑仕事や家事、育児に毎日忙しく、婦人が集会に出かけるということもめったにないことであった。また、その頃はほとんどの女性が教育を受けておらず、年に1回の総会で「グスーヨー メンソーチクミソーチ、ニヘーデービール。チューヤ、渡慶次婦人会ヌ総会ヤイビーグトゥ、ユーユート シミソーリヨー。」*2 と一言あいさつをするのも並大抵のことではなかった。
 発会当初の活動は日常生活の改善に関することで、ソウジマーイ(清掃見回り)、字ユー小(グヮー) *3の取り組み、織物産業の奨励、食生活の改善等であった。
 昭和の初期頃には、婦人会活動の1つとして養蚕業が奨励され、多くの婦人が積極的に取り組んだ。1年に4〜5回まゆが取れ、多い人は1回で30円の収入があった。その頃は勤め人の男性の収入が1か月6〜7円程度だったので、字でも養蚕業を奨励し、畑や屋敷の一角を利用して桑を植えたものである。初めはまゆのまま出荷していたが、徐々に自分たちで糸を紡ぎ反物にしたり、宮古染めで染め上げてから織るなどしてきれいな反物ができるようになっていった。織物展示会を開催し、各婦人は展示会に間に合わせるために昼夜を問わず機織りに励んだ。夏には旧暦6月25日のカタノーヂンを赤・青・黄と色とりどりで織り、子ども達を喜ばせた。
 1934年(昭和9)の玉城※※会長(西勢頭(イリシール))の時には「かまど改善」が行われ、それまで土間に石を3つ立てただけのかまどを使って調理されていたが、それを煉瓦造りのかまどに造り替えた。そうすることで時間が半分以上短縮され、燃料として使う薪の消費低減が図られた。かまど改善の費用は隣組で2円模合をし、そこで集ったお金で1軒1軒造り直していった。このようにきびしい生活の中で行事の改善、機織りの講習や研修会などを行い、また時代の進展に伴って、女性の社会的地位も徐々に高まっていった。
 
 (2) 戦時下の婦人会活動
 婦人の啓蒙を図り、生活を改善していった婦人会活動であったが、戦況が悪化するにつれ、婦人会活動も戦時色に染まっていった。食べ物、タバコ、石油など全てが配給制になり、衣服もモンペと標準服が普及した。軍への物資の供出・労力の奉仕や防空防火訓練、竹槍を持っての軍事訓練など、戦況に併せて活動内容も変化し、出征する兵士のために慰問袋や千人針*4を作り贈った。出征当日は日の丸の小旗を振って最初の頃は嘉手納駅まで見送ったが、戦況の悪化により渡慶次国民学校の前までと変わり、沖縄戦が近づく頃には見送りもなくなった。
 
◎[写真] 本編参照
「千人針」。兵士はこれを腹巻きにした
(読谷村立歴史民俗資料館寄託資料
)
 
 戦時下での婦人会長を務めた玉城※※は、兵士として出征する玉城※※(後当下庫理(クシトーチャグイ))に「※※戦死ときいたら、御国のために立派に死んでいったんだと喜んで、※※バンザイとほめて下さい。それが婦人会幹部皆さんの勤めです。」と言われたことがとても印象的だったという。出征兵士の家庭への慰問や奉仕作業も婦人会が中心になり、戦死した兵士の遺骨の受け取りなどにも付き添った。
 ほとんどの男性が軍隊へと召集され、1944年(昭和19)8月学徒勤労令及び女子挺身勤労令*5が日本政府から出されると、女子青年と女学生、下は小学生までが労働にかり出された。残った婦人や老人達で軍事物資等の供出にあたらねばならず、小さい子どもがいる家庭などは大変な苦労が強いられた。そこで、字で保育所(幼稚園)を開き、子ども達をそこに集め面倒を見ようということになった。各家庭では生活苦の中で資金や保育料について心配された。
 1942年(昭和17)玉城※※会長(当下庫理(トーチャグイ))の時、玉城萬次郎区長(西勢頭(イリシール))の長女玉城※※が保母として2か月間無料保育を行った。すると、仕事の足手まといになる子ども達が生活習慣を教わり良い子になったと親も喜び、保育所に対し理解するようになった。1人50銭の保育料で30名くらいの子ども達を集め、保母には玉城※※、福地※※、安田※※(前之川上(メーヌカーカン))に安い給料でお願いした。玉城区長や書記の山内※※(昌正山内)、婦人会の役員等が協力し、運営にあたった。給料は県から補助を受け支払われた。また、南洋移住者からの寄付金を受け、瀬名波の大おお道みち売店より100円で大型の蓄音機を購入し、必要なレコードや備品等も整備された。字事務所での保育所の評判は高く、他地域より視察が来たときも、帰宅している児童を集めるため太鼓を2点打「ポンポン、ポンポン」と叩くと、ものの10分もかからないうちに集合した様子を見て、「幼い子ども等とも思えない。」と感心されたほどであった。初園児は1936年(昭和11)生まれの子ども達であった。
 そのように戦時下でも何とか続けられていた婦人会活動であったが、戦況がますます悪化し、国頭への避難が進められた1945年(昭和20)に中断した。
 
 (3) 終戦直後の婦人会活動
 降り注ぐ砲弾の間をくぐり抜け、ようやく終戦となったが、郷土は灰燼に帰し、家族も散り散りバラバラになり、夫や子ども、親兄弟を亡くし、希望を失いかけた者も多かった。そこから石川等の収容所に収容され、互いに励まし合い支え合って命をつないだ。1946年(昭和21)から帰村が許可され、渡慶次出身者の多くは高志保への仮住まいとなった。
 終戦から3か年後の1948年(昭和23)には村民の移動も大体終わり、各字別の行政が始められた。そこで、渡慶次婦人会でも9月に役員選挙を行い、大城※※会長(正次不動小(セイジフルーグヮー))のもと再出発した。農耕も十分できず、米軍からの給与物資の配給だけでの生活は困窮を極め、衣類も米軍の野戦服(HBT)を手直しし、子どもから大人、男女の区別無くそれを着けたため、婦人はその縫製作業に追われる毎日であった。また、村婦人会からは米軍の配給物資のメリケン粉(小麦粉)やバターをおいしく食べるための料理講習会なども開かれ、終戦後の苦しい生活の中でも婦人としての立場から生活を支えた。婦人会活動というほどの活動はほとんどできない状態ではあったが、区長をはじめ、字有志の協力を得て会員名簿、その他の諸帳簿の作成に取りかかった。葬儀の際のユー小徴収も婦人会の仕事であった。高志保での仮住いの住居、また戦後の混乱もあり生活さえ困難を極める中でも、ムラ興し運動には婦人会より多くの会員が積極的に協力した。
 1950年(昭和25)、戦後3代目の会長である大城※※(清栄与久田(セイエイユクダ))は、当時を振り返って次のように述べている。「その頃の婦人会員の多くは夫や息子を戦争で失い、幼い子どもをかかえて、何とも云えない苦しい生活を送っている方が多かった時代です。こんな時、何かに頼りたい、そして暗い淋しい生活から脱して明るい希望のある人生を歩もうと願っている人たちに、婦人会の集会が最も楽しい憩いの場所でした。一日の疲れを忘れ、思い思いの話に花が咲き、笑いがこぼれる姿を見ると、会長になって本当に良かったと思いました。」大城※※会長の時には戦後初の会則が作成され、次年度より施行された。
 
 
 

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