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第7章 むらづくり―各種団体の活動―
第7節 渡慶次に於ける青少年健全育成活動の歴史
はじめに
字渡慶次では現在の子ども会育成会に至るまでに、学事奨励会、青少年健全育成会といった組織が存在し、それぞれがその目的に則って活動をしてきた。
学事奨励会は1984年(昭和59)度に青少年健全育成会に組織替えしたが、それ以前に学事奨励会の役員の尽力により、子ども会育成会が1977年11月に結成された。その後は協力しあいながら子どもたちの健全育成のための諸事業を展開してきたが、後述するように、子ども会育成会と青少年健全育成会は、1995年(平成7)4月1日をもって統合し今日に至っている。それぞれの組織は一定の期間、その役割を果たし、学力向上や青少年の健全育成に尽力してきたのである。
本稿では、それぞれの歴史をひもときながら、子ども会育成会に統合される過程を通して、字渡慶次の人びと(祖父母・父母)が取り組んだ子ども達の育成に関する主たる活動をみることにする。
学事奨励会は1984年(昭和59)度に青少年健全育成会に組織替えしたが、それ以前に学事奨励会の役員の尽力により、子ども会育成会が1977年11月に結成された。その後は協力しあいながら子どもたちの健全育成のための諸事業を展開してきたが、後述するように、子ども会育成会と青少年健全育成会は、1995年(平成7)4月1日をもって統合し今日に至っている。それぞれの組織は一定の期間、その役割を果たし、学力向上や青少年の健全育成に尽力してきたのである。
本稿では、それぞれの歴史をひもときながら、子ども会育成会に統合される過程を通して、字渡慶次の人びと(祖父母・父母)が取り組んだ子ども達の育成に関する主たる活動をみることにする。
1 『渡慶次の歩み』からの要約
『渡慶次の歩み』から「学事奨励会と育英事業」の項を要約すると次のようになる。
渡慶次の学事奨励会は1922年(大正11)、当時の区長儀間伊七(朝儀)によって発会された。その理由として、区民や青年の間に、教育に対する関心が高まり、字内で青年の補習教育が盛んな時であり、この機会をとらえ教育の振興を図ると同時に、貧しいために上級の学校に進学できない子女のために、育英事業も兼ねて学事奨励会として発足した。
育英事業は字全体として資金造成をしたのではなく、志ある人がその資金を出し合って学事奨励会の中においたもので、金銭の出し入れは、役員の責任においてなされたようである。発足の年の催し物としての「学事奨励会」は、敬老会も兼ねて催された。その中では渡慶次校区の各字の学力、出席の順位番付の発表もあり、渡慶次は常に字宇座との上位争いであった。その後は、毎年12月の自治会や、組の反省会にそれぞれ児童生徒を集めてノートや鉛筆等をあげて励まし、人づくりの機会として力を入れていた。
戦後は1950年(昭和25)に、衣食住にも事欠くような、どさくさの中で学事奨励会の発足準備委員会を組織して6月17日に発会式を行った。敗戦によって希望を失いかけている児童生徒に心のよりどころを与え、勉学のできる環境をつくってやり、前途に明るい希望を持たせることが目的であった。そして戦後の第1回「学事奨励会」は1951年(昭和26)3月17日に開催された。すべての物資が乏(とぼ)しいだけに特に学用品(ノート等)は那覇に行かないと買い求めることができなかった。そこで、児童生徒への学力賞、出席賞としてノートが贈られ、大いに喜ばれた。
1960年(昭和35)には、公民館図書館が完成し、さらに教育隣組が組織されたため、学事奨励会の持ち方も大きく変わった。それまでの学力賞、出席賞に代わる「進学賞」(進級賞)が設けられた。また、これまでは賞品を受け取ると児童生徒らは解散し、その後は父兄が宴会をやっていたが、この年から児童生徒中心の会の持ち方になり、紅白まんじゅうとコーラなどのソフトドリンクで子どもたちと父母とが一緒に楽しく過ごせるように変わった。
1963年(昭和38)頃からは図書館を利用して作品展示会を催し、出品者への参加賞授与、図書館の利用者への多読賞等も設けた。さらに各隣組から余興も出され、字の学芸会の様相を呈するなど、一歩進んだ奨励会の持ち方に村教育委員会からの評価も高まった。そのため、翌年度には全琉教育長会などの視察が相次いだ。
1964年(昭和39)度末の予算審議委員会では育英資金積立として1,000ドルが認められ、翌1965年(昭和40)にも500ドルが追加され、『渡慶次の歩み』が発刊される前には約2,000ドルの積立金があった。しかしながら、事務の繁雑さや諸般の事情から貸与方式による育英資金の運営は不可能となり、積立金は字の会計へ戻した。
1970年(昭和45)からは、それまで3月末に行っていた「学事奨励会」を4月開催に変更した。中高校生の出席率が悪くなり、小学生と中高校生とを分けて別々に開催することにした。中高校生向けには全員が喜んで参加できるようにと「福引き大会」を取り入れるなどで大成功を収めた。この裏には山城※※の目に見えない努力があった。そして、この年6月には、父母、児童生徒が一丸となってこの盛り上がりを維持し完全なものにしようと「学事振興総決起大会」を開催し、成功裏に終えた。
1971年(昭和46)度からは学事予算が一般会計から分離され独立会計となった。学事奨励会には多数の有志からの副賞があり、さらに学事予算からは1年生から6年生までのすべての児童に絵の具をプレゼントし、小学生用の「福引き大会」も催され、楽しい会を過ごすことができた。中高校生向けには、昨年同様に「福引き大会」を行い、さらに父母とのパネル討議も行うなど好評を博して閉じた。学事予算には、教育隣組、補導委員、スポーツ少年団の運営費も含まれていた。
渡慶次の学事奨励会は1922年(大正11)、当時の区長儀間伊七(朝儀)によって発会された。その理由として、区民や青年の間に、教育に対する関心が高まり、字内で青年の補習教育が盛んな時であり、この機会をとらえ教育の振興を図ると同時に、貧しいために上級の学校に進学できない子女のために、育英事業も兼ねて学事奨励会として発足した。
育英事業は字全体として資金造成をしたのではなく、志ある人がその資金を出し合って学事奨励会の中においたもので、金銭の出し入れは、役員の責任においてなされたようである。発足の年の催し物としての「学事奨励会」は、敬老会も兼ねて催された。その中では渡慶次校区の各字の学力、出席の順位番付の発表もあり、渡慶次は常に字宇座との上位争いであった。その後は、毎年12月の自治会や、組の反省会にそれぞれ児童生徒を集めてノートや鉛筆等をあげて励まし、人づくりの機会として力を入れていた。
戦後は1950年(昭和25)に、衣食住にも事欠くような、どさくさの中で学事奨励会の発足準備委員会を組織して6月17日に発会式を行った。敗戦によって希望を失いかけている児童生徒に心のよりどころを与え、勉学のできる環境をつくってやり、前途に明るい希望を持たせることが目的であった。そして戦後の第1回「学事奨励会」は1951年(昭和26)3月17日に開催された。すべての物資が乏(とぼ)しいだけに特に学用品(ノート等)は那覇に行かないと買い求めることができなかった。そこで、児童生徒への学力賞、出席賞としてノートが贈られ、大いに喜ばれた。
1960年(昭和35)には、公民館図書館が完成し、さらに教育隣組が組織されたため、学事奨励会の持ち方も大きく変わった。それまでの学力賞、出席賞に代わる「進学賞」(進級賞)が設けられた。また、これまでは賞品を受け取ると児童生徒らは解散し、その後は父兄が宴会をやっていたが、この年から児童生徒中心の会の持ち方になり、紅白まんじゅうとコーラなどのソフトドリンクで子どもたちと父母とが一緒に楽しく過ごせるように変わった。
1963年(昭和38)頃からは図書館を利用して作品展示会を催し、出品者への参加賞授与、図書館の利用者への多読賞等も設けた。さらに各隣組から余興も出され、字の学芸会の様相を呈するなど、一歩進んだ奨励会の持ち方に村教育委員会からの評価も高まった。そのため、翌年度には全琉教育長会などの視察が相次いだ。
1964年(昭和39)度末の予算審議委員会では育英資金積立として1,000ドルが認められ、翌1965年(昭和40)にも500ドルが追加され、『渡慶次の歩み』が発刊される前には約2,000ドルの積立金があった。しかしながら、事務の繁雑さや諸般の事情から貸与方式による育英資金の運営は不可能となり、積立金は字の会計へ戻した。
1970年(昭和45)からは、それまで3月末に行っていた「学事奨励会」を4月開催に変更した。中高校生の出席率が悪くなり、小学生と中高校生とを分けて別々に開催することにした。中高校生向けには全員が喜んで参加できるようにと「福引き大会」を取り入れるなどで大成功を収めた。この裏には山城※※の目に見えない努力があった。そして、この年6月には、父母、児童生徒が一丸となってこの盛り上がりを維持し完全なものにしようと「学事振興総決起大会」を開催し、成功裏に終えた。
1971年(昭和46)度からは学事予算が一般会計から分離され独立会計となった。学事奨励会には多数の有志からの副賞があり、さらに学事予算からは1年生から6年生までのすべての児童に絵の具をプレゼントし、小学生用の「福引き大会」も催され、楽しい会を過ごすことができた。中高校生向けには、昨年同様に「福引き大会」を行い、さらに父母とのパネル討議も行うなど好評を博して閉じた。学事予算には、教育隣組、補導委員、スポーツ少年団の運営費も含まれていた。
2 各種資料にみる学事奨励会の活動内容
『1961 字渡慶次学事奨励会』
『1961 字渡慶次学事奨励会』と題された手作りの資料から、当時の「学事奨励会」の内容をもう少し詳しく見てみよう。
表紙をめくると「会順」があり、開会の言葉、会長挨拶、学事報告、役員選出、新役員報告、新会長挨拶、来賓祝辞、閉会のことば、余興となっている。次のページには「1.字別学年別在籍数」が一覧表となっている。その下に「2.1年間皆出席者調」が各学年、各字ごとに実数と%、さらには等位が記されている。
「字別学年別在籍数」「1年間皆出席者調」の頁
次のページには「3.6ヶ年皆出席賞」が一覧であり、字ごとと男女別、合計が記されている。その下に「4.共通語賞」とあり、各学年、各字ごとに実数と合計が記されている。「5.部落賞」では、字ごとに「学力平均」「出席率」「合計」「等位」が記されている。ちなみに、この年の字渡慶次の「部落賞」では学力平均が宇座の59.58に次ぐ2位で57.79、出席率は長浜の99.81に次ぐ2位で99.80、合計での等位は宇座の79.69に次いで2位の78.80となっている。「6.長浜博士奨学賞」には、渡慶次では、与那覇※※、山内※※。儀間では、山内※※、嘉手苅※※。宇座では、山内※※、山内※※とある。
「共通語賞」「部落賞」の頁
次ページからは、「読谷中学校在籍数」(字別、学年別、男女別、合計)、字別の出席状況(%)と等位。同じく学業成績と等位、総合点と等位、出席賞、役員賞と続き、高等学校合格者数が掲載されている。
次のページには、「石川在住在学生調」(学年別、男女別、合計)があり、その下には渡慶次小学校新入生(現幼稚園)調があって、男26人、女19人、計45人となっている。
次に高等学校合格者氏名として、神谷※※、知花※※、知花※※、川上※※、新垣※※、国吉※※がある。さらに琉球大学、卒業、山城※※、在学生、玉城※※、山内※※、与那覇※※。本土留学在籍、山内※※、安田※※、山内※※、神谷※※、玉城※※、大城※※、呉屋※※。国際大学、卒業、神谷※※、仲村渠※※、与那覇※※、在学生、与那覇※※、山内※※、山城※※の名が記されている。
最終のページには、読谷高等学校、3年卒業、与那覇※※、盛島※※、山内※※。2年修了、儀間※※、与那覇※※、与那覇※※、玉城※※、玉城※※、棚原※※、金城※※、与那覇※※、国吉※※、玉城※※。1年修了、山内※※、与那覇※※、新垣※※、福地※※。中部農林高等学校、2年修了、福地※※、1年修了、新垣※※。
最後に「渡慶次公民館図書利用賞」として、小学校生、神谷※※、仲村渠※※、福地※※、山内江※※、山内※※、山内※※。中学生、仲村渠※※、仲村渠※※、大城※※となっている。
これらの資料から読み取れることは、当時の「学事奨励会」はまさに、字ごとに競いながら成績や出席率を上げ、上級学校への進学を奨励するといった催し物であったということである。それにしても、これだけの資料は学校側と役員との連携が密でなければできない資料であり、地域と学校とがいかに本気で子ども達の学力向上、出席率アップを図っていたかがうかがえる。
競争心をあおることに某(なにがし)かの違和感を覚えないでもない。しかし、当時としては、真の戦後復興は子ども達の教育にあるといった思いと気概が込められた催し物であっただろうことを示している資料として興味深い。
『1961 字渡慶次学事奨励会』と題された手作りの資料から、当時の「学事奨励会」の内容をもう少し詳しく見てみよう。
表紙をめくると「会順」があり、開会の言葉、会長挨拶、学事報告、役員選出、新役員報告、新会長挨拶、来賓祝辞、閉会のことば、余興となっている。次のページには「1.字別学年別在籍数」が一覧表となっている。その下に「2.1年間皆出席者調」が各学年、各字ごとに実数と%、さらには等位が記されている。
「字別学年別在籍数」「1年間皆出席者調」の頁
次のページには「3.6ヶ年皆出席賞」が一覧であり、字ごとと男女別、合計が記されている。その下に「4.共通語賞」とあり、各学年、各字ごとに実数と合計が記されている。「5.部落賞」では、字ごとに「学力平均」「出席率」「合計」「等位」が記されている。ちなみに、この年の字渡慶次の「部落賞」では学力平均が宇座の59.58に次ぐ2位で57.79、出席率は長浜の99.81に次ぐ2位で99.80、合計での等位は宇座の79.69に次いで2位の78.80となっている。「6.長浜博士奨学賞」には、渡慶次では、与那覇※※、山内※※。儀間では、山内※※、嘉手苅※※。宇座では、山内※※、山内※※とある。
「共通語賞」「部落賞」の頁
次ページからは、「読谷中学校在籍数」(字別、学年別、男女別、合計)、字別の出席状況(%)と等位。同じく学業成績と等位、総合点と等位、出席賞、役員賞と続き、高等学校合格者数が掲載されている。
次のページには、「石川在住在学生調」(学年別、男女別、合計)があり、その下には渡慶次小学校新入生(現幼稚園)調があって、男26人、女19人、計45人となっている。
次に高等学校合格者氏名として、神谷※※、知花※※、知花※※、川上※※、新垣※※、国吉※※がある。さらに琉球大学、卒業、山城※※、在学生、玉城※※、山内※※、与那覇※※。本土留学在籍、山内※※、安田※※、山内※※、神谷※※、玉城※※、大城※※、呉屋※※。国際大学、卒業、神谷※※、仲村渠※※、与那覇※※、在学生、与那覇※※、山内※※、山城※※の名が記されている。
最終のページには、読谷高等学校、3年卒業、与那覇※※、盛島※※、山内※※。2年修了、儀間※※、与那覇※※、与那覇※※、玉城※※、玉城※※、棚原※※、金城※※、与那覇※※、国吉※※、玉城※※。1年修了、山内※※、与那覇※※、新垣※※、福地※※。中部農林高等学校、2年修了、福地※※、1年修了、新垣※※。
最後に「渡慶次公民館図書利用賞」として、小学校生、神谷※※、仲村渠※※、福地※※、山内江※※、山内※※、山内※※。中学生、仲村渠※※、仲村渠※※、大城※※となっている。
これらの資料から読み取れることは、当時の「学事奨励会」はまさに、字ごとに競いながら成績や出席率を上げ、上級学校への進学を奨励するといった催し物であったということである。それにしても、これだけの資料は学校側と役員との連携が密でなければできない資料であり、地域と学校とがいかに本気で子ども達の学力向上、出席率アップを図っていたかがうかがえる。
競争心をあおることに某(なにがし)かの違和感を覚えないでもない。しかし、当時としては、真の戦後復興は子ども達の教育にあるといった思いと気概が込められた催し物であっただろうことを示している資料として興味深い。