続 渡慶次の歩み
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第7章 むらづくり―各種団体の活動―
 

第6節 渡慶次青年会

 
1 渡慶次青年会の歴史
 (1) 戦前の青年会活動
 1914年(大正3)に18歳〜48歳までの男女で組織した青年会が発足した。俗に「二才(ニーセー)ズー」と言われ、字の全ての行事や風紀の取り締りを行う等、字の中心的な組織となっていった。日頃は農業生産に力を入れる一方、自己の教養を高める事業も行った。晩には次良白堂(ジラーシロー)の家を借りてそろばんや渡慶次内に寄宿する教師を招いての勉強会を開催した。
 1918年(大正7)には婦人会と青年団とに分離し、年齢は15歳〜35歳までとなった。初代団長には与那覇※※(後白堂(クシシロー))が選任された。その後、1922年(大正11)には年齢が15歳以上25歳までの男女で構成され、男子は青年団、女子は特に処女団(未婚女性)と呼ばれるようになり、初代団長には山城※※(牛池之畑(ウシーイチヌハタ))が選任された。
 団員は自家の農作業のかたわら、早朝に堆肥汲み出しのヰーマール(ユイマール:共同作業)等も行い、晩は字事務所(今でいう公民館)で開かれる夜学へ通って、大城※※(徳不動小(トゥカーフルーグヮー))から珠算を、当下庫理(トーチャグイ) に間借りしていた教師の宮里からは一般教養を教わっていた。またこの頃、字が青年団文庫用50円分と処女団文庫用20円分を出資し、「青年文庫」を開設して読書熱が高まった。
 大正の中頃から、経済状況の悪化に伴い、家計を支えるため県外や海外への出稼ぎが増え、女子は主に紡績工場へと出て行った。そのため団員も少なく、青年団活動が著しく低下していった。
 1933年(昭和8)、衰えていた青年団活動を盛り上げようと15歳以上25歳までの男女(女子は未婚者)で新たに青年団を組織し、団長に大城※※(清栄与久田(セイエイユクダ))を選び、心機一転再出発を図った。その後団長は与那覇※※(加那城間小(カナー グスクマグヮー))、山内※※(昌正山内(ショウセイヤマチ))へと引き継がれた。山内団長は青年団をより強化しようと、規律と奉仕の精神を団活動を通して指導した。特に時間厳守に目標を置き、その活動は称賛に値するものがあった。
 1935年(昭和10)頃は、字内の青年のほとんどが農業従事者であり、夜間を利用して自己の教養を高めることが青年団活動の中心となっていた。
 団員の集合の合図は太鼓で行われ、3点打は男子、4点打は女子を意味していた。非常呼集は早打で、その場合は太鼓が鳴り終わって5分以内には多くの団員が集合した。また、起床・消灯の時間も給仕が太鼓で知らせるようになっており(夏冬適宜に時間を調節)、夜遅くまで遊んでいたり、毛(モー)アシビー等をしていると字の先輩方に大目玉を食らった。青年団員は毎朝事務所前の広場に集り、団長の指揮でラジオ体操をした。体操後、時には拝所の清掃や部落内道路に覆い被さっている樹木の枝打ちなどの作業をした。またある時、拝所の美化をはかろうと浜からバラス(砂利)を運び、拝所に敷き詰めたら当時の区長玉城文次郎(玉城小(タマグスクグヮー))に呼ばれ「かってに拝所に手を加えては祟りがあると区民から苦情があるのでまかりならぬ」とお灸をすえられ、団員は大いにむくれたという話もある。
 農繁期になれば、ガス灯(カーバイト*1 )を利用して夜間の共同作業が行われ、主にウーヂンニーコーサー(キビの根っこ起し)をした。1人当りの時給を5銭として地主から受け取り、青年団の基金造成にも役立てた。
 時には渡慶次出身の教師知花※※や玉城※※の両氏を招へいし、珠算や読書会、意見交換会等も行われ団活動がにぎわった。
 他字の青年団に先がけ、男子は全員が頭髪の丸刈りを実施、禁酒禁煙を実行した。さらに、普通語励行を実施して方言の罰則を設ける等の活動がなされた。
 1936年(昭和11)、模範青年として定評のあった新垣※※(鍋川上(ナビーカーカン))が団長に選任され、ますます活動が強化された。その頃から運動会でも宇座と優勝争いをするようになった。また、1939年(昭和14)には、戦後 沖縄のチャップリンとして有名になった芸人小那覇舞天を招き、女子青年のみで行う普通語劇(共通語劇)の指導を受け、女性が初めて村芝居に参加するなど、女子会員の活動も活発だった。
 しかし、日中戦争から第二次世界大戦の戦時体制下の非常時へと移っていく中で、食糧の増産がさけばれ、また警防団の組織化や消火訓練、竹槍訓練と慌ただしい毎日となっていった。女子青年は、婦人会と協力して出征兵士への慰問袋や千人針を作り、出発の日には男女青年が嘉手納駅(軽便鉄道)まで歩いて見送ったりした。沖縄戦もさし迫った1944年(昭和19)からは、国土防衛、郷土防衛の名の下に若い男子は次々と召集され、1年の間に2〜3回も会長が代わるなど、厳しい社会情勢となり、青年会活動は困難を極めた。それでも残った青年達は徴用や読谷(北)飛行場造りに駆り立てられたが、やがて1945年(昭和20)3月25日の夕刻、「非戦闘員はすべて北部へ避難せよ」との強制避難命令に伴い、青年団活動は全く停止された。
 
 (2) 戦後の青年会活動
 読谷村民の帰村が許されたのは、終戦の翌年1946年(昭和21)8月6日のことであった。そして、第1次村民受入は同年、11月20日頃より始められた。それから半年が経過し、1947年(昭和22)5月頃には、渡慶次の青年会結成の準備委員会が持たれ、同年7月に結成総会を開催した。初代会長に新垣※※(花城(ハナグシク))、副会長に山内※※(蔵根小(クラニーグヮー))を選出して戦後の青年会活動が始まった。
 当時の青年会員の職業といえば、ほとんどの者が軍作業で、住込みで働く者も多かった。9月になって先に選任された会長・副会長共に住込みになったため役職を辞し、臨時総会を開催し役員の再選を行った。その結果、会長に仲村渠※※(吟光白堂(ギンコウシリドゥ))、副会長に当間※※(当間(トーマ ))を選出し、会活動にあたった。当時は居住が許されたのが高志保・波平の一部地域だけであったため、事務所(今でいう公民館)がなく、青年会の集合場所はほとんどが高志保西側の民家はずれの路上であり、総会等の大きい行事は高志保の製糖工場(旧比嘉酒造敷地)を利用していた。高志保の西側での集合時には路上に砂場を作り、集会の度毎に角力の練習を行った。会員には長いこと沖縄を離れて本土にいた者や海外引揚者も多く、同じ渡慶次出身でありながら顔なじみがない者もおり、自己紹介等を通して友情を深めた。さらに当時は、食糧難の上、畑も割当制のため青年会活動も食糧確保に向けられた。青年たちは潟野の字有地を借り受けて耕作をすることを思い立ち、字有志に願い出たところ快く了解してもらった。一致団結して字有地を開拓し、食糧増産に務め、さらに青年基金造成ための共同作業も行った。そうした成果を得て太鼓を購入する等、無からの出発はまさに戦後の多難さを物語るものであった。
 
◎[写真] 本編参照
戦後初の角力大会の時の寄附者名簿
 
 1948年(昭和23)与那覇※※会長時の旧暦6月26日、戦前の潟野馬場を偲ぶ行事として、戦後初の角力大会を行った。9月にはこれまた戦後初めての6か字による校区運動会(現在の陸上競技大会の前身的なもの)も開催する等、青年会活動は一段と活発になった。またこの年の7月には高志保381番地に待望の字事務所(公民館)が建設されたので、青年集会もその事務所を利用して行うようになった。毎週土曜日は青年集会と決め、120人程の会員が100%に近い出席率で参加した。何の娯楽も無い当時は、伝達事項・協議事項が済むと余興の時間をもうけ「一人一芸」を行うのが常であった。各々前へ出て十八番の喉を披露して喝采を浴びたり、あるいは赤面してもじもじしながら「突飛に出されまして・・・」とその場を免れるなど、青年集会は実に楽しい集いであった。みんなが集会日の土曜日を待ちかねる程で、住込みで働く者達も土曜日はこの集会に参加するために欠かさず帰り、大いににぎわった。
 先輩達の大半が軍隊帰りであり、ふざける者や態度が悪い者、または未成年で喫煙している者等がいると、軍隊精神でもってビンタの制裁を行い、時にはふざけ者2人を前に出して交互にビンタの打合い等もさせられた。時間励行については、集合時間より少しでも遅れると前に立たされ遅れた理由を述べさせるので、それを恐れて時間に遅れる者は1人もいなかった。4月の総会では新加入者の自己紹介等もみんなが素直に、1人1人前に出て大声を張り上げてやった。
 それから運動会練習は3か月前から始まり、部員(選手候補)が決まるまでは毎日、各自の仕事や作業が終わり次第全員が練習に参加しなければならなかった。運動会まで後1か月に近づくと代表選手が決められ、その後は彼らだけで練習を行うが、選手以外は旧八月十五夜の演劇等の練習にまわった。
 ある年の運動会練習の時、出席者が男子40名程に対し女子はたった5名だった。女子会員の集まりの悪さに怒った役員は5名の女子に、5分以内に各々1人づつ連れてこいと命令し、5分後集まった10名にもまたそのような命令をして、それを繰り返し30分後には女子全員が集まった。すると集まった女子全員を字事務所前広場に2列横隊に並べ、会長・体育部長でビンタの制裁を加えた。次の日からは女子会員も全員集るようになった。ところが数日後の晩、男子の幹部から会長・体育部長が呼び出しを受け、女子会員に制裁を加えたとの理由で退陣要求が出された。そこで女子の会長・体育部長を呼び事情を聞いたところ、女子の会長は、3日前の午後6時から7時までの間に確かに制裁を受けた。しかしそのおかげで昨日からは全員が運動会練習に出るようになり、会長が行ったことは不当ではなく、正当なものであり、私達も叩かれて感謝していると証言した。男子幹部はこれを聞き、この退陣要求を取り下げたというエピソードもある。
 この頃からは民主主義教育も盛んになり、昔の軍国主義的な制裁や命令も徐々に無くなっていった。このようにして青年会活動は徐々に強化され、スポーツ面では各種スポーツ行事への参加、教養面では演劇・演芸・珠算競技・料理や手芸の講習、産業面では耕作地作業・荒廃地起耕・敷地の地均し等、お互いに教養を高めつつ、部落復興のため休む暇無く一生懸命がんばった。
 1951年(昭和26)、青年会教養部の企画でダンス講習を行った。当時の山城※※会長以下男女幹部が毎晩事務所にダンス教師を招き、雨戸を閉めきって練習していたが、「男と女が抱き合って踊るのは風紀上よろしくない、しかも青年会幹部たる者が」など、字の先輩や役員からの苦言があり、家庭では夫婦のトラブルが続発し長続きはしなかった。
 1952年(昭和27)1月には、それまで高志保での生活を余儀なくされていた渡慶次区民へ、旧部落への待望の移動許可が下りた。移動許可に伴い、当間※※会長ほか青年会員による敷地の整備作業が始まった。1日でも早く郷土での生活を送れるように青年会が一致団結し、復興にあたった。
 また、同年5月には青年倶楽部建築資金造成の目的で、青年会、準青年会合同で演劇を行った。読谷沖映で2日間、さらに5月10日・11日の2日間は石川のオリエンタル劇場において泊まり込みで興行した。4日間とも大入り満員で大成功を収め、収入はB円で45,000円、支出28,000円で残金17,000円は青年会員に五分(5%)の利息で貸し付け、青年倶楽部建築資金として積立てていった。
 1953年(昭和28)、準青年会を解散することとなった。理由は、青年会・準青年会とも男子の加入年齢が17歳以上となっており、青年会を卒業する年齢までは両方に加入し、会費等もすべて二重の負担になっていた。そこで、準青年会を解散して負担を減らそうとの意図からであった。
 1954年(昭和29)頃になると、区民の渡慶次への移動もだいぶ進み、部落内では住宅の建築の槌音が聞こえ、食糧増産のための荒廃地起耕作業などで猫の手も借りたい程忙しい毎日が続いていた。青年会も仕事に出る前の午前6時から7時迄の1時間、敷地の地均し作業等に励み、時給は1人当り3円(B円)をもらい、青年倶楽部建築資金へと積立てていった。早朝のため、朝露でしっとりとしており、作業者のズボンの裾は雨に濡れ重くなった。薮の中は蛇も多く、1つの屋敷から4〜5匹退治するときもあった。病人以外の欠勤はなく、常時80名くらいは出勤したので、人数が多いときには2組に分けて作業を行うなどした。また会員は各自の職場の出勤時間に決して遅れないよう心がけた。
 字事務所(公民館)広場の拡張は前勢頭(メーシール)屋敷とマシ知花(チバナ)屋敷を購入して拡張することを青年会で提起し、字の有志や役員にお願いしたところ、数名からの反対もあったが、青年会の熱意を汲み取り前勢頭屋敷を購入し、マシ知花屋敷は字有地148番地(前当下庫理(メートーチャグイ)の東)と交換して、6月頃から拡張工事を始めた。青年会は積極的に協力し、屋敷全体に1丈(じょう)(約3m)程の客土を要したため、ブルドーザーを1日借り、その賃借料5000円(B円)は青年倶楽部建築資金より支出した。字からの人夫も1日だけしか頼まず、残りは青年会が引き受け、毎夕仕事帰りを利用し奉仕作業を進めた。その努力が実り、見事な広場が出来た。1956年(昭和31)の字事務所(公民館)建設に際しては、青年会も青年倶楽部建築資金より10万円(B円)の資金を寄付し、建築中は何度となく奉仕作業に参加して、字事務所(公民館)の完成を見た。字事務所西側の半分は青年倶楽部として定められ、会員の修養の場として大いに活用した。
 戦後の復興期においては部落への協力または社会への奉仕をモットーとして活動してきたが、社会が復興から繁栄へと発展していく過程で青年会も緊張感が薄れてきた。また、若者達は「金の卵」と持てはやされ、本土企業への集団就職が促進されたこともあり、部落に残る青年会員が激減し、青年会活動も停滞していった。
 1965年(昭和40)に与那覇柳英区長は青年会活動の停滞を心配し、会員を集めて「青年会の積立金を借りて返済できない者の元金を半額にして取り立て、青年会の運営資金に充ててはどうか」などいろいろと説得を試みたが、らちがあかなかった。その後も、貸付金の取り立ては滞り、役員の引継ぎもままならない状況が続き青年会の弱体化はますます進んでしまった。
 そうした中で、1970年(昭和45)の玉城国市区長は就任当初の1か年の事業計画で、1番目に青年会の再建に力を入れることを発表した。数回に亘って青年会幹部と話し合いを持ち、仲村渠※※を会長として、新たな青年会活動の展開を試みた。しかし、出稼ぎに行く若者はいっこうに減ることなく、時世の流れか会活動は一向によくならなかった。
 1971年(昭和46)の会員数は男子57名、女子27名で合計84名となっていたが、実際に青年会活動に参加する者はその半数にも満たなかった。当時の青年会の年間行事は、定期総会、野球大会、排籠球大会、旧6月の角力大会、旧盆のエイサー大会、村陸上競技大会への参加、社会見学、ダンスパーティーなど、若いエネルギーを発散させ、余暇を楽しく過ごそうとする社会風潮を反映させたような、スポーツと娯楽中心の青年会活動となっていった。
 
 (3) 近年の青年会活動
 1972年(昭和47)5月15日、日本復帰が実現し、沖縄が米軍統治下から日本への復帰を記念した事業も行われた。その復帰特別記念事業の1つ、特別国体(若夏国体)への参加に向けエイサーの演技練習なども始まり、1973年(昭和48)5月に行われた国体本番には、大城※※会長を中心に、婦人会・健青会と協力し100名余の大人数で参加した。
 その後も青年学級の開講や映写会の開催など、教養を高める目的でいろいろな事業に取り組んだ。
 1984年(昭和59)には読谷村青年団協議会(会長小橋川※※)主催で、8年ぶりに読谷村青年エイサーまつりが開催され、渡慶次青年会も翌年の1985年(昭和60)、与那覇※※会長の時から参加するようになった。会の存在さえ危ぶまれていた青年会活動がエイサー祭りへの参加をきっかけに、少しずつ活気を取り戻し始めた。1986年(昭和61)に開催された角力大会には戦後から本大会まで38回目にして初の外国人(エジプトの元オリンピック代表選手)の参加もあり、青年会主催の行事で大変な盛り上がりを見せた。
 1994年(平成6)の儀間※※会長の時には「第30回青年ふるさとエイサー祭り」へ初参加を果たし、翌1995年(平成7)与那覇※※会長時には、那覇市の国際通りで開催される「第1回1万人のエイサー踊り隊」へ参加するなど、村内だけでなく、県内各地で渡慶次のエイサーを披露した。会員数もこれまでよりも増え、エイサーや様々な行事などを通して伝統文化の保存継承に努めている。また1996年(平成8)の安田※※会長の時からは、それまで字の先輩達に依頼していたエイサーの地謡も、青年会OBや会員で行うようになった。その同年の旧暦6月25日の角力大会は5年ぶりに青年会独自で開催した。近年では、本土の青年層との交流等もあり、エイサー祭でも他府県からの参加者を得て盛り上っている。
 
070110-参加者も増えて
関西からの参加者も増えて
 
〔注〕
*1 水と反応すると可燃性のアセチレンガスを発生させる物質。カーバイトランプとして使用した。
 
2 渡慶次青年会歴代役員
 
本編参照
 
渡慶次青年会会則
 
  第1章 総則
第1条 本会は渡慶次青年会と称し、事務所を当区公民館内に置く。
第2条 本会は当字青年が友愛によって団結し、会員相互の和を図り、知識を身につけ、教養を高め、合わせて体育及び文化の向上に総力を結集し、共に研究しあって明るい住みよい幸福な地域社会の建設に貢献することをもって目的とす。
第3条 前条の目的達成のため次の事業を行う。
 (1) 会員相互の教養を高めるための各種事業
 (2) 体育向上に必要な各種事業
 (3) 地域社会の福祉増進に必要なる事業
 (4) その他
  第2章 組織
第4条 本会の会員は当区民にして男子満16歳より25歳、女子16歳より23歳までとして、学生生徒(私設学校を除く)婚姻したる女子は本会よりまぬかれるものとする。当字青年会外で第2条の目的に賛同する者は会員として入会を認める。なお入会は評議委員会を経て総会の承認を得るべし。
  第3章 機関
第5条 本会に次の機関をおく。
 (1) 総会 (2) 役員会
 (3) 理事会 (4) 評議委員会
  第4章 役員
第6条 本会に次の役員をおく。
 (1) 会長1名 (2) 副会長2名
 (3) 書記1名 (4) 会計1名
2 本会の役員委員に手当及び旅費を支給する。手当及び旅費については、役員委員の手当及び旅費支給規程による。
第7条 本会役員の選出は、会員の投票によるものであるが、適正な人選を得るため選考委員で選出することも出来る。
第8条 本会役員の任務は1年間とする。但し、再選を妨げない。
第9条 本会の役員に欠員を生じた場合は第7条により補充する。但し、任期は前任者の在任期間とする。
第10条 本会の役員の任務は次の通りとする。
 (1) 会長は本会を代表して、会務を掌理する。
 (2) 副会長は会長を補佐し、会長事故ある場合は之を代行する。
 (3) 書記は本会会議の議事録を作成し、一切の事務記録を担当する。
 (4) 会計は本会の会計事務を担当する。
  第5章 会議
第11条 総会 総会は、本会の最高議決機関であり、次の事項を決定する。
 (1) 会則の改廃
 (2) 予算及び事業計画
 (3) 役員の選出
2 総会は毎年4月と3月の2回開催する。但し会長が必要と認めた場合は臨時に之を開催することができる。
第12条 役員会 役員会の任務権限は次のとおりとする。
 (1) 総会及び評議委員会の決定事項の処理
 (2) 評議委員会に対する事項の提案
 (3) その他、必要と認められる事項
第13条 本会に理事6名を置き、各年代より1名総会において選出する。
第14条 評議委員会は、役員、理事、各部の正副部長をもって構成する。
2 評議委員会は会長より提案された事項を審議する。
3 その他、必要と認められる事項を審議する。
  第6章 会計
第15条 本会の運営費は負担金、寄付金、助成金を以てこれに充てる。
第16条 本会の会計年度は4月に始まり、翌年3月末日に終わる。
  第7章 監査
第17条 本会に監査員2名を置き総会により選出する。
2 監査員は年1回3月末日までに監査をし、その結果を総会に報告しなければならない。
  第8章 帳簿
第18条 本会に次の帳簿をおく。
 (1) 公文書綴 (2) 記録簿
 (3) 会計簿 (4) 役員名簿
 (5) 会員名簿 (6) 備品台帳
  第9章 雑則
第19条 本会に顧問をおく。
2 顧問は、会長の推載により議員、区長、健青会長があたる。
 
   附則
 本会則は1971年4月1日より施行する。
 本会則は1984年4月29日に一部改正し、同日施行する。
 
青年会役員手当及び旅費支給規程
 
第1条 本会役員手当は次の通りとする。
 
  年額
会長 5千円
副会長 3千円
書記 3千円
会計 3千円
監査員 3千円
 
第2条 本会の役員が公務のため出張する際、旅費を支給する。
2 旅費は日当と車賃の2種類とする。
 (1) 日当 5百円
 (2) 車賃 実費
 
   附則
 この規程は公布の日から施行し、1984年4月29日より施行する。
 
 

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