続 渡慶次の歩み
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第7章 むらづくり―各種団体の活動― 
 

第14節 渡慶次タイガース

 

1 少年野球渡慶次タイガース結成に至るまで

 当初は子ども達が遊びの延長として野球を始め、宇加地などへ子ども達だけで練習試合に行くなどしていた。子ども達だけで行くと、帰りが遅くなるなどの心配が続いたので、子ども会の中の組織として1978年(昭和53)6月28日に少年野球部を作り、大会などがあれば参加するようになった(会長玉城※※)。
 技術指導者がいなかったため、年度ごとの子ども会会長が監督を務め、1979年(昭和54)与那覇※※会長時に「渡慶次少年野球育成会」が結成され、玉城※※が監督に就任し、渡慶次小学校グラウンドにて練習が行われた。1982年(昭和57)に友江※※を、翌年に与那覇※※をコーチに迎え、指導者3名による本格的な指導が始められた。
 少年野球として始めた頃は、たまご色に「渡慶次」と書いたユニフォームを着用していた。1982年(昭和57)、山内※※(次郎白堂(ジラーシロー))がキャプテンの時に、チームの名称を「渡慶次タイガース」とし、ユニフォームも阪神タイガースのトレードマークである縦じまのユニフォームになった。
 練習場所であった渡慶次小学校グラウンドは渡慶次タイガースだけでなく、儀間・宇座の少年野球チームとも交代で使っていた。小学校のグラウンドということもあり、監督や大人がいなくても使っている子ども達もいたが、各チームの監督同士で話し合いをして、何か問題があっては困るので大人がいないときには使わせないことなどを決めた。また、渡慶次公民館広場でもネットを張ってティーバッティングなどを練習させるなど、監督・コーチ陣による積極的な指導があった。
 1984年(昭和59)には読谷村少年野球大会で春夏秋冬の4大会完全制覇を成し遂げた。翌年には波平が3大会まで勝っていたが、4大会目で渡慶次が勝ち、波平の4大会完全制覇を阻んだ。以降4大会完全制覇したチームは他に出ていない。
 少年野球時代のメンバーには山城※※(牛池之畑(ウシーイチヌハタ))、与那覇※※(与那覇(マサーユナハ))、友江※※(友江(トモエ))、儀間※※(新屋井志(ミーヤーイーシ))、与那覇※※(前白堂(メーシロー))がいた。渡慶次タイガースに名称替えした初期のメンバーには宮城※※(二男仲門小(ジナンナカジョーグヮー))、与那覇※※(与那覇(ユナハ))、玉城※※(マサー当下庫理(トーチャグイ))、与那覇※※(味茶白堂(ミチャーシロー))、友江※※(友江)、玉城※※(当下庫理(マサートーチャグイ))、福地※※、福地※※、大城※※(万久与久田(マヌクユクダ))、宜保※※(宜保(ギボ))、仲村渠※※(新屋知花(ミーヤーチバナ))、玉城※※(後当下庫理(クシトーチャグイ))、与那覇※※(与那覇(ユナハ))、与那覇※※(前白堂(メーシロー))、与那覇※※(勇一金細工(ユウイチカンジェークー))、玉城※※等がいた。
 

2 ソフトボールへの移行

 翌年に読谷村での海邦国体ソフトボール大会開催を控えた1986年(昭和61)、友江※※が監督に就任してからは、少年野球だけでなくソフトボールもやるようになっていった。
 野球では身体の大きさによって勝ち負けが大きく左右される。学校単位で組織し、比較的身体の大きい子どもを集めやすいチームに比べて、渡慶次タイガースのように地域単位(部落単位)で組織したチームでは身長も年齢もバラバラで力の差が出てくると勝ち進んでいくのが難しくなっていた。もともと、村内で大会がある際には野球だけでなくソフトボールにも出場しており、少年野球で弱点となった身長や体格の問題がソフトボールだとその子どもの身体の大きさに合わせて攻撃パターンが考えられるようになった。子ども達も自分の身体の大きさに合わせ頭で考えながらプレーできたのではないか、と当時コーチであった与那覇※※は振り返る。野球からソフトボールに切り替えたのは村内でも渡慶次が初めだった。
 友江監督就任の翌年、1987年(昭和62)2月22日には渡慶次区民待望の渡慶次農村運動広場が完成し、その年からはそこでの練習が始まった。
 
070221-特別練習風景から
渡慶次運動広場での特別練習風景から
 
 1988年(昭和63)3月、県少年ソフトボール春季大会で優勝を果たし、初の全国大会である第2回全国小学生春季男女ソフトボール大会(鹿児島県指宿市)に県代表として参加した。同年8月には県少年ソフトボール夏季大会で優勝し、第2回全国小学生夏季ソフトボール大会(高知県高知市)に参加した。監督会において選手宣誓をする選手を渡慶次タイガースから出すように頼まれ、開会式はあいにくの大雨となったが、田原※※主将が全国を代表して選手宣誓を行った。
 
070222-雨の中、選手宣誓
雨の中での開会式、選手宣誓でした
 
 開会式の翌日はすぐに試合が組まれていたので、大雨の中行進してびしょぬれになったユニフォームを父母会が大慌てで乾かしたというエピソードもある。翌日の試合は晴れ、子ども達はのびのびとしたプレーを見せた。
 その後も、1989年(平成元)8月スポーツ少年団県大会で優勝し、第9回九州ブロックスポーツ少年団交流大会(佐賀県武雄市)に出場した。1991年(平成3)3月村大会・県大会で優勝し、第1回九州小学生選抜ソフトボール大会(鹿児島県阿久根市)へ出場した。村大会からエースとして出場し、活躍した紅一点の玉城※※が新聞でも取り上げられ、大きな話題を呼んだ。8月には第9回九州小学生ソフトボール大会(嘉手納町)に県代表として参加し、優秀な成績で第11回九州ブロックスポーツ少年団交流大会(大分県大分市)への参加が決定した。しかし、大分への出発当日は台風のため飛行機が飛ばず、不参加となってしまった。
 様々な大会で優秀な成績を収めたことで渡慶次タイガースの知名度が上がり、チームに入りたいという子ども達も増えていった。しかし、子ども会の下部組織であり、運営費が字からの予算で組まれているため、渡慶次の子ども達以外を受け入れることができなかった。他地域からの入会希望者に対しては、保護者にその事情を説明し、断りを入れるのに苦労することもあった。
 1993年(平成5)からは、与那覇※※が監督に就任、渡慶次タイガースのOBである与那覇※※・友江※※の両名をコーチに迎えた。新コーチ陣を迎えた同年8月、宮崎県宮崎市で開催された第11回全九州小学生ソフトボール大会へ出場を果たした。
 
070222-宮崎大会へ出場を決めた
宮崎大会への出場を決めた当時のメンバー
 

3 文化活動への参加

 渡慶次タイガースの子ども達は、子ども会を中心とした字の行事があるときなどは、練習や練習試合よりも優先的に参加した。渡慶次タイガースのチームの目標が、スポーツ活動だけでなく、文化活動・社会活動を通しての人間育成であったため、常に地域に根ざした活動が展開された。渡慶次タイガースの選手でありながら、子ども獅子舞クラブにも所属するなど、公民館を活用した文化的な活動も積極的に行われた。スポーツの原点を“遊び”と捉え、子ども達が人間性豊かに育つよう様々な方面での活動を展開し、1994年(平成6)には第22回読谷村社会教育研究大会で「社会体育功労賞」を団体の部で受賞した。
 

4 渡慶次タイガースの解散

 1995年(平成7)から与那覇※※を監督に、友江※※をコーチにして活動を続けた。
 その後、両指導者による熱心な指導が行なわれたが、子どもの数が少なくなってきたことと、1993年(平成5)に発足したJリーグの影響でサッカーの人気が高まり、サッカークラブに入会するなど渡慶次タイガースのチーム活動を維持していくことが困難となっていった。そこで、監督やコーチ、父母や役員で話し合った末に、1997年(平成9)渡慶次タイガースの活動を停止した。解散の際には渡慶次タイガース所属の子ども達には別のチームへと移籍してもらうなどした。
 

5 渡慶次タイガース出身者の活躍

 地域が一体となり子ども達を支えてきた渡慶次タイガースからは、多くの優秀な選手が輩出された。
 野球を中心に指導が行なわれていた時のメンバーである与那覇※※は、三菱自動車水島野球チーム(ノンプロ)に投手として入団した。また、1992年(平成4)春の第64回全国高校野球選抜大会で読谷高校の正一塁手(ファースト)として渡口※※(3年)が出場。
 
070223-全国大会参加の激励会から
全国大会参加の激励会から
 
同年夏の第74回全国高校野球大会には沖縄尚学高校の正遊撃手(ショート)として宜保※※(3年)が出場した。宜保※※はこの夏の大会で、神奈川県桐蔭学園の高橋※※投手(現巨人)から延長12回にサヨナラヒットを打ち、チームを勝利へ導いた。
 
070224-甲子園出場を決めた
甲子園出場を決めた宜保※※君に
花束を贈る(区民運動会にて
)
 
 ソフトボールでは知花※※、山内※※の両名が全国大会へと出場した。また、国体少年ソフトボールの選手として、年代は違うが、田原※※、玉城※※、与那覇※※、棚原※※、玉城※※が選出されている。特に田原※※と玉城※※は国体の成年男子チームのメンバーとして現在も活躍中であり、他にも、多くの渡慶次タイガース出身者が九州大会等に出場し活躍を見せている。
 読谷中学校のソフトボールチーム全国制覇や全国高校選抜ソフトボール大会・インターハイ等の常連である読谷高校ソフトボールチームの要になっていたのも渡慶次タイガース出身者が多い。 
 
 
 

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