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第7章 むらづくり―各種団体の活動―
第10節 渡慶次文化財保存委員会
1 「渡慶次文化財保存委員会」の誕生まで
あのいまわしい戦火のため、われらが郷土渡慶次もすべてが灰燼に帰してしまった。今日暮らせても明日の生活の予測さえ出来ない戦後混乱期が長期間続いた。
渡慶次区民もやっとの思いで元の屋敷に家を建てたが1年も経たぬ間に米軍の命により立ち退きを余儀なくされ、生活の拠り所を失い他字へ仮住まいせざるを得ない不自由な生活を強いられた。
再び渡慶次に戻るには数年の歳月を要するが、うちひしがれた渡慶次区民の強靱な魂はひるむものではなかった。有形の文化的な遺産は区民の努力で復元することも可能であるが、精神的な支えである無形の遺産を再興することは容易なことではない。
ある程度の生活を取り戻すと、精神的な心の拠り所を求め三線の音が響き渡るようになった。趣味のある数名が声をかけ合い、グループで三線の練習が始まった。これが渡慶次古典音楽同好会の誕生である。技術の向上とともに発表会を持ったり、共進会、観月会、出生祝等の地謡を務めたりもした。
一方コンクリート建ての見事な公民館が建つと、そこを拠点に字行事の具体化について話し合われると同時に、各種団体の活発な活動が展開されるようになった。
そうしたなかで1964年(昭和39)に渡慶次老人クラブ(青洋会)が発足した。米軍統治下においての老人福祉は劣悪で、他県との格差には大きいものがあった。目前の福祉向上充実のために各地域に次々と老人クラブが産声を上げたのである。
青洋会の活動は年々広がりを見せ、内容も充実していった。特筆すべきことは、渡慶次に継承されてきた組踊の大作「大川敵討−村原」の復活であった。それは、今までの心の支えを失い、物に流される時代に自らのよって立つところを指し示すかのような出来事であった。
ところが、肝心な脚本も戦争で消失してしまっていた。戦前「大川敵討−村原」に出演した人や関わった人々が一堂に会し、新垣※※(仲之川上(ナカヌカーカン))が中心になり、時間をかけて脚本が完成した。その脚本をもとに上演の準備が着々と進められていった。連日連夜、真剣な討議を重ね、手作りの衣装、小道具を手作りし、役者、裏方、地謡等が安田※※を中心に決定されていった。そして、区民総動員態勢で作業が進められ、文字通り歴史的な組踊「大川敵討−村原」が1972年(昭和47)に復活した。
3時間余にわたる組踊「大川敵討−村原」が青洋会により見事に上演された。それは、区民に大きな感動を与えるとともに大喝采を博し、見事成功裡に終えたのである。この快挙は新聞紙上にも報じられ大きな話題になった。
1974年(昭和49)には獅子舞と棒術の発表会を催し、読谷村文化まつりでもその一部が上演された。
昭和49年12月8日開催の「文化財保存発表大会」から
なお渡慶次には組踊「大川敵討−村原」以外に「矢蔵の比屋」があるが、1988年(昭和63)青洋会創立25周年の記念事業の一環としてそれを上演している。以後5か年ごとに上演しようと計画されたが、30周年記念事業に上演されてからは諸般の事情で途絶えている。 そのため、幾世代にわたって継承されてきた伝統芸能はきちんとした形で次の世代に継承すべきであるとの共通認識に立ち、何らかの組織を作るべきであるとの結論に達した。これが渡慶次文化財保存委員会の誕生の背景である。
渡慶次区民もやっとの思いで元の屋敷に家を建てたが1年も経たぬ間に米軍の命により立ち退きを余儀なくされ、生活の拠り所を失い他字へ仮住まいせざるを得ない不自由な生活を強いられた。
再び渡慶次に戻るには数年の歳月を要するが、うちひしがれた渡慶次区民の強靱な魂はひるむものではなかった。有形の文化的な遺産は区民の努力で復元することも可能であるが、精神的な支えである無形の遺産を再興することは容易なことではない。
ある程度の生活を取り戻すと、精神的な心の拠り所を求め三線の音が響き渡るようになった。趣味のある数名が声をかけ合い、グループで三線の練習が始まった。これが渡慶次古典音楽同好会の誕生である。技術の向上とともに発表会を持ったり、共進会、観月会、出生祝等の地謡を務めたりもした。
一方コンクリート建ての見事な公民館が建つと、そこを拠点に字行事の具体化について話し合われると同時に、各種団体の活発な活動が展開されるようになった。
そうしたなかで1964年(昭和39)に渡慶次老人クラブ(青洋会)が発足した。米軍統治下においての老人福祉は劣悪で、他県との格差には大きいものがあった。目前の福祉向上充実のために各地域に次々と老人クラブが産声を上げたのである。
青洋会の活動は年々広がりを見せ、内容も充実していった。特筆すべきことは、渡慶次に継承されてきた組踊の大作「大川敵討−村原」の復活であった。それは、今までの心の支えを失い、物に流される時代に自らのよって立つところを指し示すかのような出来事であった。
ところが、肝心な脚本も戦争で消失してしまっていた。戦前「大川敵討−村原」に出演した人や関わった人々が一堂に会し、新垣※※(仲之川上(ナカヌカーカン))が中心になり、時間をかけて脚本が完成した。その脚本をもとに上演の準備が着々と進められていった。連日連夜、真剣な討議を重ね、手作りの衣装、小道具を手作りし、役者、裏方、地謡等が安田※※を中心に決定されていった。そして、区民総動員態勢で作業が進められ、文字通り歴史的な組踊「大川敵討−村原」が1972年(昭和47)に復活した。
3時間余にわたる組踊「大川敵討−村原」が青洋会により見事に上演された。それは、区民に大きな感動を与えるとともに大喝采を博し、見事成功裡に終えたのである。この快挙は新聞紙上にも報じられ大きな話題になった。
1974年(昭和49)には獅子舞と棒術の発表会を催し、読谷村文化まつりでもその一部が上演された。
昭和49年12月8日開催の「文化財保存発表大会」から
なお渡慶次には組踊「大川敵討−村原」以外に「矢蔵の比屋」があるが、1988年(昭和63)青洋会創立25周年の記念事業の一環としてそれを上演している。以後5か年ごとに上演しようと計画されたが、30周年記念事業に上演されてからは諸般の事情で途絶えている。 そのため、幾世代にわたって継承されてきた伝統芸能はきちんとした形で次の世代に継承すべきであるとの共通認識に立ち、何らかの組織を作るべきであるとの結論に達した。これが渡慶次文化財保存委員会の誕生の背景である。
2 渡慶次文化財保存委員会の活動
1977年(昭和52)3月13日、伝統芸能に広い識見を持っている者及び字の祭祀(御願)に詳しい人々を委嘱し、運営規程を設けてスタートした。その第2条に「古より字渡慶次に継承されてきた有形・無形の文化財を保存するとともに後継者を育成し広く後世に伝承することを目的とする」と明確な指針を規定している。さらに文化財を「古より引き継がれてきた有形・無形のもの(獅子、旗頭、御嶽、各拝所への御願、獅子舞、組踊等及びこれに付随する台本、衣装、道具等)」と具体的に表記している。
委員長は区長が務め、目的遂行のため月1回の定例会を開催し、共通理解を深めている。
以下、渡慶次文化財保存委員会の活動の概況を振り返ってみよう。
(1) 5年ごとに上演されている組踊「大川敵討−村原」の配役依頼とその指導。
(2) 渡慶次まつりのステージの準備及びプログラム編成、具体的な演技の指導、当日の進行運営、着付け化粧等。
(3) 拝所の御願
月々字渡慶次として行うべき御願行事を整理し、1989年(平成元)に『年中行事録』(祭祀編)としてまとめた。それに則って御願を実施している。
(4) 過去に上演された演劇、舞踊等の掘り起こし
「八重山節」、「南嶽節」、「悪魔狂」、「松竹梅鶴亀」、「特牛節」、「イサヘイヨー」、「チクムクターリー」等を掘り起こし上演してきている。
(5) 獅子の位置づけの明確化
獅子については次のように規定されている。
「旗頭は渡慶次の象徴であり、獅子は渡慶次の守り神である。獅子については、原則として持ち出しを禁ずる。ただし、持ち出しを必要とする場合は、委員会の審議をへて戸主会へ報告をするものとする。」この規定ができあがる以前は対外的なイベントにもよく出演していたが、現在はほとんどない。獅子屋からの獅子の出し入れに際しては、旧暦7月16日と8月15日及び渡慶次まつりに、文化財保存委員会及び行政委員会などの役員が見守る中、古典音楽にのせて厳かに行っている。
2001年(平成13)に稽古用の獅子を別途に作り、後継者の育成に大きな役割を果たしている。
(6) 対外的なイベントへの協力
字外での各種まつり、イベント等への出演依頼にもとづき、渡慶次の芸能を披露している。
委員長は区長が務め、目的遂行のため月1回の定例会を開催し、共通理解を深めている。
以下、渡慶次文化財保存委員会の活動の概況を振り返ってみよう。
(1) 5年ごとに上演されている組踊「大川敵討−村原」の配役依頼とその指導。
(2) 渡慶次まつりのステージの準備及びプログラム編成、具体的な演技の指導、当日の進行運営、着付け化粧等。
(3) 拝所の御願
月々字渡慶次として行うべき御願行事を整理し、1989年(平成元)に『年中行事録』(祭祀編)としてまとめた。それに則って御願を実施している。
(4) 過去に上演された演劇、舞踊等の掘り起こし
「八重山節」、「南嶽節」、「悪魔狂」、「松竹梅鶴亀」、「特牛節」、「イサヘイヨー」、「チクムクターリー」等を掘り起こし上演してきている。
(5) 獅子の位置づけの明確化
獅子については次のように規定されている。
「旗頭は渡慶次の象徴であり、獅子は渡慶次の守り神である。獅子については、原則として持ち出しを禁ずる。ただし、持ち出しを必要とする場合は、委員会の審議をへて戸主会へ報告をするものとする。」この規定ができあがる以前は対外的なイベントにもよく出演していたが、現在はほとんどない。獅子屋からの獅子の出し入れに際しては、旧暦7月16日と8月15日及び渡慶次まつりに、文化財保存委員会及び行政委員会などの役員が見守る中、古典音楽にのせて厳かに行っている。
2001年(平成13)に稽古用の獅子を別途に作り、後継者の育成に大きな役割を果たしている。
(6) 対外的なイベントへの協力
字外での各種まつり、イベント等への出演依頼にもとづき、渡慶次の芸能を披露している。
3 渡慶次文化財保存委員会の研修
委員の資質の向上と識見を広めるため、毎年研修会を開催している。その顕著なものを挙げてみよう。
(1) 組踊「大川敵討−村原」に出る地名めぐり
(2) 字内、村内外の史跡めぐり
二見情話の歌碑の前で
(3) 歌碑めぐり
全県下にある歌碑めぐりを、行政委員会及び他組織と連携し、3回に分けて実施した。その際の様子を所在地、歌意、スナップ等で小冊子にまとめた。
(4) 他字に残る組踊の鑑賞
・伊江島(組踊、村踊り)
・伊是名村仲田区の豊年祭(組踊等)
・多良間村視察(八月踊り、組踊「大川敵討」)
(1) 組踊「大川敵討−村原」に出る地名めぐり
(2) 字内、村内外の史跡めぐり
二見情話の歌碑の前で
(3) 歌碑めぐり
全県下にある歌碑めぐりを、行政委員会及び他組織と連携し、3回に分けて実施した。その際の様子を所在地、歌意、スナップ等で小冊子にまとめた。
(4) 他字に残る組踊の鑑賞
・伊江島(組踊、村踊り)
・伊是名村仲田区の豊年祭(組踊等)
・多良間村視察(八月踊り、組踊「大川敵討」)
4 文化財保存委員会活動経過
年代月 | 内容 |
1973年(昭和48) | この頃から活動を始める。 |
1977年(昭和52)3月 | 渡慶次文化財保存委員会の運営規程を設け、本格的な活動がスタート。 |
1977年(昭和52)3月 | 読谷村文化まつりで獅子舞、組踊「大川敵討−村原」の一部発表。 |
1979年(昭和54)11月 | 村の伝統芸能発表会で組踊「大川敵討−村原」の一部上演。 |
1984年(昭和59) | 第10回読谷まつりで本獅子出演。 |
1986年(昭和61)8月 | 無縁墓移設(後ヌ川上渡慶次○○番地から渡慶次○○番地へ) |
1986年(昭和61)11月 | 第2回渡慶次まつりで伝統芸能組踊「大川敵討−村原」全幕上演。 |
1987年(昭和62)3月 | 第1回全島獅子舞フェスティバル(具志川市安慶名闘牛場)へ本獅子出演。 |
1988年(昭和63)8〜9月 | 健青会と協力して不動明王(屋号不動の西側渡慶次○○番地)及び地頭火之神(蔵元の後、渡慶次○○番地)の改築。 |
1988年(昭和63)9月 | 第4回渡慶次まつりで健青会が「特牛節」を披露。 |
1990年(平成2)10月 | 第10回伝統芸能発表会で組踊「大川敵討−村原」上演。 |
1992年(平成4)9月 | スタジオパーク「琉球の風」オープニングへ本獅子出演。 |
1992年(平成4)9月 | 第8回渡慶次まつりで婦人会が「松竹梅鶴亀」を受け継ぐ。 「八重山節」復活上演。 |
1993年(平成5) | 大池之碑建立。「カナチロ」碑移動。 |
1993年(平成5)7月 | 忠魂碑のでいごの大木撤去。 |
1993年(平成5)8月 | 読谷村内史跡めぐり。 |
1993年(平成5)9月 | 城フェスティバルで歌劇「悪魔狂」上演。 |
年代月 | 内容 |
1993年(平成5)10月 | 第9回渡慶次まつりで歌劇「悪魔狂」を45年ぶりに青洋会・婦人会・健青会合同で演じる。 |
1995年(平成7) | 組踊「大川敵討−村原」上演。この年、安田※※から新垣※※へ後継者として脚本が託された。 |
1996年(平成8)3月 | 字内史跡めぐり。 |
1996年(平成8) | 舞台用後幕作成。組踊「大川敵討−村原」脚本の編集始める。 |
1996年(平成8)10月 | 第12回渡慶次まつりでイサヘイヨー大会開催。役場職員・婦人会・昭和22年生・獅子舞クラブ保護者等の団体が出場。 |
1999年(平成11)2月 | 伊良皆区と芸能交流。 |
1999年(平成11)7月 | アタトーヤー(渡慶次之殿)改築。 |
1999年(平成11)8月 | 歌碑めぐり。 |
1999年(平成11)11月 | 第15回渡慶次まつりで青年会が「イサヘイヨー」を受け継ぎ披露。 |
2000年(平成12)6月 | 伊平屋・伊是名への宿泊研修。 |
2000年(平成12)8月 | 無縁墓移設(上之山内(イーヌヤマチ)の後ろの岩、瀬名波○○番地から渡慶次○○番地へ)。 |
2000年(平成12)10月 | 第16回渡慶次まつりで組踊「大川敵討−村原」上演(第12回伝統芸能発表会)。婦人会が10年ぶりに歌劇「チクムクターリー」復活。(指導:与那覇※※)持ち出し用獅子製作。 |
2001年(平成13)7月 | 歌碑めぐり(北部)。 |
2001年(平成13)10月 | 第17回渡慶次まつりで「八重山節」上演。 |
2002年(平成14)7月 | 伊江島西上江区との芸能交流。 |
2002年(平成14)10月 | 第18回渡慶次まつりで青年会が「南嶽節」を披露。高校生が「イサヘイヨー」を演じる。 |
2002年(平成14)10月 | 第17回全島獅子舞フェスティバル(具志川市安慶名闘牛場)へ出演(持ち出し用獅子で演じる)。 |
2002年(平成14)11月 | 沖縄県文化協会長賞団体賞受賞。 |
2003年(平成15)4月 | 組踊「大川敵討−村原」脚本発刊。 |
2003年(平成15)10月 | 第19回渡慶次まつりで婦人会が「前ヌ浜」を受け継ぐ(指導:与那覇※※)。「語やびら島クトゥバ」開催。 |
2003年(平成15) | 歌碑めぐり(北部)。 |
2004年(平成16)5月 | 歌碑めぐり(中南部)。 |
2004年(平成16)10月 | 第20回渡慶次まつりにて歌劇「悪魔狂」を上演。 |
2005年(平成17)5〜6月 | 渡慶次御嶽のブロック塀の改修工事竣工。 |
2005年(平成17)10月 | 第21回渡慶次まつりで組踊「大川敵討−村原」上演(第13回伝統芸能発表会)。青年会の女子が「加那ヨー天川」を演じる。 |
2006年(平成18)9月 | 多良間村の「八月踊り」を視察。 |
2006年(平成18)10月 | 第22回渡慶次まつりで「八重瀬万歳」を披露。 |
2007年(平成19)9月 | 伊江島西上江区の国指定重要無形文化財「村踊り」を視察。 |
2008年(平成20)9月 | 伊平屋・伊是名島の視察(伊是名村仲田区の豊年祭組踊発表)。 |
5 予算
(平成19年度)
文化財保存会費 | |||
491,000 | 需用費 | 理事会 | 50,000 |
清明祭 | 30,000 | ||
慰霊祭 | 50,000 | ||
各御願費 | 130,000 | ||
研修費 | 200,000 | ||
消耗品費 | 30,000 | ||
備品費 | 1,000 |
(平成20年度)
文化財保存会費 | |||
393,000 | 需用費 | 理事会 | 50,000 |
清明祭 | 30,000 | ||
慰霊祭 | 50,000 | ||
各御願費 | 130,000 | ||
研修費 | 100,000 | ||
消耗品費 | 20,000 | ||
備品費 | 四つ竹 | 10,500 | |
帯(加那ヨー天川) | 2,500 |
6 委員一覧
本編参照