続 渡慶次の歩み
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第7章 むらづくり―各種団体の活動― 
 

第11節 渡慶次体育振興会

1 戦前のスポーツ概況−青年運動会

 戦前の小学校(当時の正式名称は昭和15年までは尋常高等小学校と呼ばれ、昭和16年4月から国民学校となるが便宜上以下小学校と表記する。)の運動会では、校区青年運動会が長年併催されていた。
 渡慶次校区は、高志保、渡慶次、儀間、宇座、瀬名波、長浜の6か字からなり、はちまきの色もそれぞれ、白、ピンク、黄、紫、緑、赤と固定され、運動会の風物詩として今日でもその面影を留めている。
 採点種目にはフィールド競技はなく、トラック競技で占められ、小学生による学年別リレーが加わり覇を競ったのである。
 小学校運動会が近づくと、各字では俄然選手の選抜や練習で活気づき、字事務所(公民館)では青年団の応援歌練習風景も見られた。当時、渡慶次青年団でよく歌われた応援歌をいくつか紹介する。
 読谷村内でも渡慶次小学校における採点種目に対する関心は非常に高く、各字勝敗に対する執念、対抗意識は激しいものがあった。その採点種目の始まる前には出場選手を応援団の前に
 
応援歌
  
作詞 新垣※※
 
1.秋空高く澄み渡り
 郷土の空も今日晴れて
渡慶次健児のますらおが
 あっぱれ立ちたる檜の舞台
 
2.輝く渡慶次青年旗
 守る渡慶次青年が
勝つも負けるもどうどうと
 清き誉れに名をあげよ
 
3.熱血躍る若人が
 勤労の汗にて鍛えたる
鉄腕鉄脚我にあり
 示さん時は今なるぞ
 
4.地をけりつぶし進み行く
 我が選手の勇ましさ
勝負は最後の五分間
 進め励めよ我が選手
 
5.勝った勝った渡慶次字
 この学校名も渡慶次校
渡慶次勝のがあたりまえ
 優勝御旗も我のもの
 
応援歌
作詞 新垣※※
 
1.高鳴る血潮に沸き立つ力
 おお我が選手の腕鳴りて
鍛えし腕に力有り
 鍛えし腕に力有り
 
2.渡慶次印に制装向かう
 桃色鉢巻キリリとしめて
誉れを挙ぐる時は来ぬ
 誉れを挙ぐる時は来ぬ
 
3.力の限りに走れよ走れ
 青空高く飛べよ飛べよ
勝利はついに我がものぞ
 勝利はついに我がものぞ
(フレートケシ、フレートケシ、フレー、フレー)
  
立たせて応援歌で激励し区民一体となって選手を送り出したものである。審判長は学校の教頭か体育主任が務め、学校職員もほとんど審判に割り当てられていた。競技が終わるたびにクレームがつくような有様だった。コースもなく、最初からオープンで、フライングでスタートをやり直すこともほとんど無く、運動場が丸型でコーナーが多かった。転倒する選手も続出する中での競技なので、競技規則に則ったクレームではなく、勝敗にこだわる感情的なことが多かった。
 このように勝敗にこだわる小学校の運動会であったことは、永年歌われた次の運動会の歌が如実にそれを物語っている。
 
運動会はじめの歌
 
待ちに待ちたる運動会
 来たれり来たれりああ愉快
吹く風涼しく日は和らか
 鍛えし技術、錬りたる手並み
正々堂々出て出て示さん
真っ先駆けて遅れはとらじ
 真っ先駆けて遅れはとらじ
 
 鍛錬は競走であり、上位になることに大きな意義があったのである。勝利至上主義の小学校の運動会であり、小学生の一般競走も上位数名にしか賞品は与えられなかった。小学生の各演技は観衆の眼中にはなく、採点種目の幕まく間あい的な存在だった。もし途中で天気があやうくなったら、採点種目を最優先して実施し、小学生の種目は取りやめになることもしばしばあった。運動会は「どこが勝ったか」と日常的に交わされる言葉にもそれがうかがわれる。
 
運動会おわりの歌
 
競い競えし運動会
 終われり終われりああ愉快
日は早や傾き夕風涼し
 日頃の錬磨はその功顕著
優勝劣敗審判済みて
凱歌の声は天にも響く
 凱歌の声は天にも響く
 
 優勝した字は優勝旗を高々と掲げ、区民一体となって凱歌を歌いグラウンドを一周し字内の凱旋パレードをするのである。
 それでもいざこざはおさまらず、採点ミスがあるとのことで採点板を持って不正を訴えるためのデモをする字も出る始末である。
 運動会の歌は、現在も読老連主催の老人運動会の歌として毎年歌われ名残をとどめている。
 

2 戦後の青年会活動と陸上競技大会

 衣食住に事欠く戦後の混乱期の中で地域復興に立ち向かうため、いち早く立ち上がったのは青年会であった。
 高志保の仮住まいや間借り生活の中にあっても、茅葺き事務所を建て、精力的に活動を展開したのである。荒れ放題になった旧集落の屋敷や道路の整備、地ならし等、率先して戦後復興に力を傾注した。
 一方、耕地を開墾し、甘蔗を植え黒糖づくりや共同作業、演劇を上演したりして活動費を捻出したこともあった。それらの会活動に参加できない時は罰金を課したり、会合に遅れたら制裁を科す等軍国主義の風潮の残る時代でもあった。
 しかし、そのエネルギッシュな活動は区民の高い評価を受け青年会の存在感を大いに高めた時代でもあった。
 他方、体育面の発展にもその功績は大きいものがあった。エイサーを復活させ、各家庭からの寄付を募り、そのほとんどを陸上競技大会の費用に充てた。これには青年会OBの多くの人々をはじめ、地域の人々も積極的に関わった。
 円盤、砲丸、スパイク等を購入しても練習用としては使用させなかった。円盤等はベニヤ板を幾枚か重ねて、円盤形に削り、それで練習させたのである。青年会員も全員陸上競技の練習に参加しなければならず、それぞれ、短距離、フィールド、長距離の三部門のいずれかに属しなければならなかった。長距離部は毎日読谷中学校近くまでの往復約5qを走らなければならなかった。
 陸上競技大会が青年運動会と呼ばれるゆえんの一つがそこにもある。
 渡慶次小学校もようやく校舎が建ち、運動場が整備され、本格的な戦後教育が始まるようになり、学校行事としての運動会も開催されるようになった。当初の1、2回は青年運動会と併催で実施され、やはり判定をめぐってのもんちゃくは絶えず、スムーズにはいかなかった。
 
070195-小学校と青年運動会併催
渡慶次小学校の運動会と青年運動会が併催の頃
 
 小学校運動会と青年会の陸上競技大会の併催でおこる諸々のことは学校教育の目標を達成するには大きな弊害があり、好ましからざる状態であることは、学校関係者より以前から指摘されていた。読谷村役所の関係者との共通認識のもとに、青年の陸上競技大会を小学校の運動会と切り離すべきであると意見の一致を見た。
 その受け皿として1948年(昭和23)、読谷村体育協会が誕生するのである。
 

3 体育部長制の導入

 読谷村体育協会の発足に伴い、陸上競技大会でも年々新しい種目が加わり、年齢別の種目も新たに設けられるようになった。こうしたことから戦前から続いた青年運動会のような体制では対応が困難になった。そこで、区長直轄の体育部長制(体育部長、副部長、書記)が導入されるようになり、1980年(昭和55)まで12年にわたり続いた。
 体育部長は陸上競技大会および各種球技大会の選手選抜や当日の世話等幅広い活動を担った。中でも与那覇清光区長時の棚原※※部長が第1回の区民運動会を開催したことは特筆すべきことである。
 歴代の体育部長氏名は次の通り。
 
年度 体育部長 区長
1969年(昭和44) 棚原※※ 与那覇清光
1970年(昭和45) 玉城※※ 玉城国市
1971年(昭和46) 玉城※※ 山城真秀
1972年(昭和47) 仲村渠※※ 新垣喜正
1973年(昭和48) 与那覇※※ 儀間信助
1974年(昭和49) 大城※※ 儀間信助
1975年(昭和50) 川上※※ 玉城義次
1976年(昭和51) 川上※※ 玉城義次
1977年(昭和52) 山内※※ 与那覇真一
1978年(昭和53) 仲村渠※※ 与那覇真一
1979年(昭和54) 大城※※ 与那覇真一
1980年(昭和55) 玉城※※ 大城得助
 

4 体育振興会の発足

 1966年(昭和41)以降、夏季大会が始まり、沖体協や中体協の下部組織的な色彩が濃くなった読谷村体育協会も種目が次第に増えるようになった。以下、新種目を年度別にたどってみよう。
 
新規登場年度 種目
1966年(昭和41) バレーボール
バスケットボール卓球、ソフトテニス
1967年(昭和42) 柔道
1968年(昭和43) 野球、剣道、相撲
1971年(昭和46) 男子ソフトボール
1972年(昭和47) 女子ソフトボール
1975年(昭和50) サッカー
1979年(昭和54) バドミントン
1980年(昭和55) バドミントンが男女別になる
1985年(昭和60) 駅伝
1986年(昭和61) 硬式テニス
1990年(平成2) ラグビー
1991年(平成3) 卓球男女別になる
1998年(平成10) ボーリング(団体)
2001年(平成13) ハンドボール
 
年度 体育振興会長 区長
1981年(昭和56) 玉城※※ 玉城義次
1982年(昭和57) 玉城※※ 玉城義次
1983年(昭和58) 玉城※※ 玉城義次
1984年(昭和59) 玉城※※ 玉城健栄
1985年(昭和60) 与那覇※※ 玉城健栄
1986年(昭和61) 新垣※※ 与那覇正勝
1987年(昭和62) 当間※※ 与那覇正勝
1988年(昭和63) 福地※※ 安田慶敏
1989年(平成元) 大城※※ 安田慶敏
1990年(平成2) 与那覇※※ 安田慶敏
1991年(平成3) 仲村渠※※ 儀間重雄
1992年(平成4) 福地※※ 与那覇徳市
1993年(平成5) 玉城※※ 与那覇徳市
1994年(平成6) 山内※※ 福地一男
1995年(平成7) 大城※※ 福地一男
1996年(平成8) 大城※※ 福地一男
1997年(平成9) 与那覇※※ 福地一男
1998年(平成10) 棚原※※ 福地一男
1999年(平成11) 山内※※ 玉城安徳
2000年(平成12) 山内※※ 玉城安徳
2001年(平成13) 新垣※※ 玉城安徳
2002年(平成14) 与那覇※※ 玉城安徳
2003年(平成15) 安田※※ 玉城安徳
2004年(平成16) 儀間※※ 玉城安徳
2005年(平成17) 儀間※※ 玉城安徳
2006年(平成18) 嘉数※※ 玉城安徳
2007年(平成19) 知花※※ 玉城安徳
2008年(平成20) 与那覇※※ 玉城安徳
2009年(平成21) 大城※※ 仲村渠正子
 
 このように夏季体育大会への移行と相まって新規種目が増えてくると区長直属の体育部長制度での対応は不可能になり、1981年(昭和56)体育振興会が誕生することとなった。
 また対外的な競技種目への対応はもちろん、区民を対象にしたソフトボール大会、新春トリムマラソン大会、駅伝大会等も企画運営している。
 体育振興会の組織の特徴は、陸上、各球技、格技等18の専門部を設けてそれぞれ部長、副部長を選任し運営しているところである。会長、副会長、事務局がそれらを統括し、さらに理事会及び顧問をおいて運営に当たっている。文字通り区民を網羅した組織へと衣替えし今日に及んでいる。
 夏季体育大会の総合成績も常に上位を占め、各役員の奮闘ぶりが察せられ、今後の活躍も大いに期待される。
 歴代役員は上の通り。
 
読体協年度別成績表
(読谷村体育協会第50回・第60回大会要綱参照)
 
070198-成績表
 
070199-成績表s
 
渡慶次区の読体協夏季大会年度別成績表(入賞種目)
※1位〜4位まで
 
070200-成績表s
 
070201-成績表s
 
渡慶次体協関係表彰者一覧
年度 読谷村体育協会 中頭郡体育協会 国、県関係・その他
功労賞、優良団体 優秀選手賞 功労賞、優良団体 優秀選手賞
1962年(S37) 野村※※ 棚原※※   
1967年(S42) 玉城※※  
1969年(S44) 安田※※  
1970年(S45) 大城※※  
1971年(S46) 与那覇※※  
1972年(S47) 山内※※  
1973年(S48) 玉城※※  
1974年(S49) 野村※※ 儀間※※  
1975年(S50) 与那覇※※ 金城※※  
1976年(S51) 山城※※  
1977年(S52) 仲村渠※※ 大城※※  
1980年(S55) 与那覇※※ 山内※※  
1981年(S56) 野村※※  
1982年(S57) 玉城※※  
1983年(S58) 玉城※※(八城建設) 与那覇※※  
1984年(S59) 新垣※※  
1986年(S61) 玉城※※ 山内※※  
1987年(S62) 与那覇※※ 沖縄県体育協会:与那覇※※(ソフトボール協会優秀指導者)
1988年(S63) 沖縄県体育協会:山内※※(ソフトボール協会優秀指導者)
1989年(H元) 沖縄県体育協会:山内※※(沖縄県中頭郡中学校体育連盟優秀指導者) 
1990年(H2) スポーツ功労賞仲村渠※※ 沖縄県体育協会:山内※※(沖縄県中頭郡中学校体育連盟優秀指導者)
1991年(H3) 福地※※ 玉城※※  
 
年度 読谷村体育協会 中頭郡体育協会 国、県関係・その他
功労賞、
優良団体
優秀選手賞 功労賞、
優良団体
優秀選手賞
1993年(H5)  
1994年(H6) 友江※※
大城※※
与那覇※※  
1995年(H7) 山内※※
玉城※※
稲福※※  
1997年(H9) スポーツ
功労賞:
山内※※、
山内※※
沖縄県社会体
育功労賞:山内※※
1998年(H10) 与那覇※※
大城※※
 
1999年(H11) 山内※※
与那覇※※
田原※※
玉城※※
田原※※
玉城※※
文部大臣賞
(体育功労):
山内※※
2000年(H12) 山内※※
小橋川※※
与那覇※※
神谷※※
仲村渠※※
神谷※※
仲村渠※※
 
2001年(H13) 大城※※ 感謝状:
山内※※
大城※※  
2002年(H14) 玉城※※  
2003年(H15) 安田※※ 喜友名※※ 喜友名※※  
2004年(H16) 玉城※※  
2005年(H17) 与那覇※※
玉城※※
儀間※※ 儀間※※  
2006年(H18) 大城※※ 大城※※  
2007年(H19) 玉城※※ 与那覇※※ 与那覇※※  
2008年(H20) 小橋川※※ 与那覇※※  
2009年(H21) 友江※※ 終身記録員:
玉城※※
(日本ソフトボール協会)
 
  
 
 

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