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第7章 むらづくり―各種団体の活動―
第3節 渡慶次婦人会
(4) 復興期の婦人会活動
1954年(昭和29)に事務所が高志保から渡慶次へと移され、人々の生活が少しずつ安定してくると婦人会活動も活発になり、「渡慶次婦人会歌」*6や「渡慶次子どもを守る歌」*7 ができた。婦人の地位と教養を高めるために毎月の定例会として「母の会」を開催し、レクリエーションを楽しんだり、優良婦人を表彰するなど活動内容も拡がりを見せ始めた。生活が落ち着くにしたがって、冠婚葬祭が派手になってきたので、お祝いと諸行事の簡素化を取り上げ、ごちそうは3品料理(ご飯、吸物、カラザカナ)とし、お祝儀は20円(B円)と定め、字の合同役員会にも提案し、議決へとつながった。
また、翌年の与那覇※※会長(勢頭(シール))の時には渡慶次小学校の校舎を借りて第1回目の「母の日」を開いた。当時の生徒会長は玉城※※(西勢頭(イリシール))で、生徒会主催で45名の渡慶次区出身の生徒が、母親との交歓会を持った。読書会や中学生との親子懇談会等も頻繁に行われるようになり、母親としての立場から児童生徒の健全育成にも貢献した。
1956年(昭和31)、渡慶次婦人会の活動の1つとして「生活改善部」が結成された。これは、この年に琉球政府によって設置された「新生活運動推進協議会設置規程」に連動するもので、その運動は琉球政府を中心に沖縄のあらゆる組織が一丸となって取り組むべきものであった。その内容からして婦人に関係することが多く、結果的には政府の生活改善課を中心に各地域の婦人会が本腰を入れて取り組んでいくようになっていった。婦人会員から希望者を募り結成されたが、当初は30名程で組織し、その頃はまだ衛生面にも関心が薄い時代だったので、「環境の整備」を目標に毎月1回清掃日を定め、各家庭を巡視した。
婦人会社会見学(1958年3月26日)
翌年1957年(昭和32)の福地※※会長(タル福地)の時、収支が予算式になった。会則の一部改正も行われ、副会長が次年度の会長となり、役員に手当てが支給されるようになった。支給額は会長8ドル、副会長・書記5ドル、幹部3ドルであった。こうした組織体制の下に広域的な活動を展開し、読谷村生活改善部発表会に玉城※※(次男加那玉城(カナータマグスク))が、家の光記事活用全国大会には山内※※(昌正山内(ショウセイヤマチ))が出場するなど、渡慶次部落内のみならず、村や県、全国の場で活躍する会員もいた。
1959年(昭和34)儀間※※会長(蒲儀間(カマージーマ))の時には、だんだんと派手になっていく冠婚葬祭などの行事を簡素化するため、生活改善グループと何度も役員会を持ち話し合いがされた。たくさんの行事の中でも出費の大きい生年祝を、字での合同祝にするという提案が通り、翌年玉城信昭区長(玉城小(タマグスクグヮー))の時より公民館で生年合同祝が開かれるようになった。
1960年(昭和35)に教育隣組が結成され、家庭学習や子ども達への生活指導等について盛んに討議された。婦人会でも教育隣組活動と連動して一段と活発な会活動が展開された。また、読谷村生活改善部発表会や琉球政府文教局指定婦人学級研究発表大会等の意見発表会へも金城※※(亀川之上(カミーカーヌイー))、与那覇※※(西白堂(イリシロー))、与那覇※※(勢頭(シール))、山城※※(池之畑(イチヌハタ))等多くの会員が積極的に参加し、婦人の発表力の養成に努めた。当区の活動実績が認められ、1962年(昭和37)村婦人会より、優良婦人会として表彰された。
翌年には、県下でもいち早く婦人会の高年部組織として「白百合会」が発足した。村内外からの問い合わせも多く、交流を希望する団体が多く訪れた。
1965年(昭和40)に校区婦人会が解消され、字と村とが直結した婦人会運営に変わった。以降は、優れた婦人会運営や字と婦人会との関係などを学ぶため、研修や他字の婦人会とも積極的な交流が持たれた。また、当区婦人会のリーダー養成のために初めての幹部研修も催し、婦人の教養向上に努めた。
1968年(昭和43)に若妻会・中年会・高年会(白百合会)の3つの組織が結成された。山城※※が高年会(白百合会)の活動について宇座公民館で発表するなど、渡慶次婦人会活動が盛り上がりを見せた。
翌1969年(昭和44)には、渡慶次婦人会創立50周年を迎え、山内※※会長以下全役員・会員が結束して記念事業に取り組んだ。そこでは記念誌発刊もなされたが、字単位で記念誌が発刊されたのは、村内でも初めてのことで、婦人会の活動の活発さが称賛された。そして、現在でも婦人会の伝統芸能の演目として受け継がれている「松竹梅鶴亀」はこの祝賀会において、初めて披露された。
初代「松竹梅鶴亀」のメンバー
初代踊り手は、松:福地※※(蔡明福地(サイメイフクジ))、竹:山内※※(蔵根小(クラニーグヮー))、梅:神谷※※(乗二神谷(ジョウジカマ))、鶴:渡口※※(渡口小(トゥグチグヮー))、亀:玉城※※が務めた。
その後、安田※※会長(前之川上(メーヌカーカン))の時、「松竹梅鶴亀」の衣裳を婦人会独自で購入する計画を立て、字からも100ドルの補助を受け衣裳を購入した。現在は字の備品としてその管理は婦人会に一任されている。
(5) 日本復帰後の婦人会活動―環境美化、リサイクル活動の展開―
沖縄県民の悲願である日本復帰の声が沖縄中からあがり、婦人会も子ども達の未来のために敢然と立ち上がった。厳しい激しい闘争の末、1972年(昭和47)5月15日、ついに日本復帰が実現した。ドル経済圏から円への移行、諸々の制度の変革で物価や交通機関などで値上がりがあり、経済状態は悪化した。婦人会では生活の防衛のために「自分の足下から」を提唱し、これまで旧暦、新暦共に行っていた正月を新正月だけ行うこととし、行事の簡素化運動なども積極的に行った。
会の会計の面でも、壁にぶつかり、当初ドルで計算していた予算案を途中で円に換算し、予算の立て直しが行われた。ところが、1ドル対360円で計算していたものが、交換の時点で1ドル対305円*8で換算され、予算が不足するなど頭を悩ませた。また、1月1日から12月末日で締めていた会計年度を4月1日から翌年の3月末日に改正した。そのためこの年度の役員は任期を3か月延長することになった。
翌年の復帰特別記念事業、若夏国体への参加に向け演技練習なども始まり、本番には演技に6名が参加、青年会と協力出演したエイサーにも60名の会員が参加した。
講演会や映写会などによって省資源についての意識が高まり、1974年(昭和49)与那覇※※会長(金細工(カンジェークー))の時には、節約の日を決め、その日は冷蔵庫に入っている物で食事を作ってお店に行かないようにする、といった「物の節約運動」を展開した。1979年(昭和54)知花※※会長の時には、ゴミとして捨てる物の中から、再利用できる物を見いだし、物を大切にする意識を高めることを目的とし、古紙回収へと乗り出した。各家庭から持ち寄ったり、または係によって回収され倉庫に集められた古紙は、婦人会高年部や幹部を中心により分けされた。新聞・チラシ・段ボールその他をより分ける作業は大変な仕事であった。古紙を詰めた段ボールを乗せた車を運転し、路上駐車されている車にぶつけ冷や汗をかいたこともあったが、古紙回収への理解から「なぁしむさー」と許してもらった。各家庭のみならず、学校、農協、商店街等広い範囲へ回収に赴き、全区民が協力した古紙回収活動はかなりの収益を上げ、会の活動資金(特に研修費)、子ども会への援助、65周年記念事業の資金に充てられた。この古紙回収は、1986年(昭和61)儀間※※会長の時に古紙価格の低下により、一時中止になるまで続けられた。
また、三役と幹部数名で各家庭を廻る清掃検査が行われるなど美化活動も活発になり、1980年度(昭和55)第10回全沖縄婦人連合大会美化コンクール団体の部で優秀賞の表彰を受けた。
盛んだった古紙回収
その後も、各種講習会や講演会、パネルディスカッションなどの活動を展開し、1984年度(昭和59)山内※※会長(昌正山内(ショウセイヤマチ))の時、65周年を迎えた。記念式典を開催し、記念誌も発刊した。記念式典では婦人会員総勢79名での創作演劇「時代の流れ」を披露し、大成功を収めた。
スポーツ活動にも積極的に取り組み、毎年の村婦人スポーツデーには多くの婦人会員が参加した。1991年(平成3)山内※※会長(蔵根小(クラニーグヮー))のときに開かれた区民ソフトボール大会のオープン試合で、ウラシマソフトボール愛好会と熱戦を繰り広げた。
1993年(平成5)大城※※会長は公民館連絡協議会において、字ユー小(グヮー)を予算化してもらうことを提案し、次年度より予算計上された。炊き出しは婦人会が責任を持ってあたり、現在でもその習慣が続いている。
2000年(平成12)仲村渠※※会長(又助白堂(マタスケシリドゥ))の時、80周年を迎え、記念式典の開催並びに記念誌の発刊、また記念碑が建立されるなど、創立から現在まで多くの活動を展開している。記念碑に書かれた文は区民から公募し、山城※※(牛池之畑(ウシーイチヌハタ))の短歌が選ばれた。
婦人会80周年記念碑(揮毫者大城※※)
区民運動会では、昼食をとるため自宅に帰る人が多かったため、午後からの種目に支障をきたしていた。そこで、2001年(平成13)与那覇※※会長の時から、昼食としてカレーライスやハヤシライスなどの炊き出しをし、区民に喜ばれ、その後よりずっと続いている。
同年、第12回全国「みどりの愛護」のつどい団体の部で県知事賞を受賞し、翌2002年(平成14)与那覇※※会長(与那覇(ユナハ))の時にも第32回全沖縄美化コンクール優秀賞を受賞、また第13回全国「みどりの愛護」のつどい団体の部でも功労賞・国土交通大臣賞を受賞するなど、会員が一致団結し美化活動を推進し、地域の活性化にもつながっている。
(6) 男女共同参画社会への進出
1994年(平成6)には女性の行政委員として仲村※※(蒲野国小(カマーヌグニグヮー))、儀間※※(蒲儀間(カマージーマ))、友江※※(友江(トモエ))が選出された。また、読谷村議会議員選挙でも仲村律子が、戦前、戦後を通して初の女性村議会議員として当選し話題となった。村議会においては貴重な女性の1議席となり、女性としての視点、母親としての視点から青少年問題や老人福祉の問題、女性の問題、地域で抱えている諸問題を提起し、村民福祉向上のために尽力した。
それ以降、毎年2〜3名の会員が行政委員として選出され、1998年(平成10)には字の監査委員に行政委員代表として、大城※※(新屋知花次女(ミーヤーチバナ))が選出された。また、2004年(平成16)には行政委員副議長に山内※※が選出された。このような動きは男女共同参画社会とされる現代においても、見本となるものであり、渡慶次婦人会から婦人会の枠を超え、行政の場でも多くの会員が活躍している。
文化面でも婦人会員の活動は活発で、文化財保存委員として大城※※(不動(フルー))、玉城※※(後当下庫理(クシトーチャグイ))、友江※※、山内※※等が活躍している。渡慶次まつりや敬老会、読谷まつりや村婦人会主催の演芸のつどい等、字内外の行事には多数の会員が創作舞踊や歌劇、「イサヘイヨー」などに出演している。
時代の変化と共に、婦人会員の組織離れが目立ち会員数も減少傾向にある。しかし、婦人会の発足と共に、幾多の時間と労力を費やしてきた先輩方の業績を顧みたとき、生活の多様化、価値観の違いはあるにせよ、これからも明るい家庭、住みよい地域づくりのため、各種団体と連携を密にしながら、共に歩んで発展させていくことが期待される。
〔注〕
*1『読谷村婦人会70周年記念誌』読谷村婦人会発行 1986年 参照
*2「皆さんようこそご出席下さいましてありがとうございます。今日は渡慶次婦人会の総会ですので、ごゆっくりどうぞ。」の意味。
*3 字ユー小(グヮー)は村落共同体の相互扶助の役割を果たし、婦人会活動の要として戦前から実施された。
当初は、穀類(粟・マージン等)を隣組の婦人を中心に各戸1合ずつ集めて提供していた。公民館からの放送や新聞掲載なども無い時代のため、婦人会員が「○○さんが亡くなられました」と連絡しながら各戸を廻る区民への連絡係の役目も果たしていた。戦争直後は役員会の協議により各戸から米1合を徴収すると決め1度実施したが、当時は米も配給制であったため、不足している状態で集められず、1円(B円)を徴収することで継続した。時代が落ち着いてくると、また米1合ずつを集めるようになるが、米の種類が各家庭で違うなどの問題から、またお金30円を徴収するようになった。1戸あたり30円を徴収すると、合計で8000円〜9000円となった。食事の材料を購入して余った残金は、後日会長が香典としてお供えした。字ユー小は大正、昭和と引き継がれ、婦人会によって徴収を行っていたが、1軒1軒を訪問しての徴収は、時間的・物理的に難しい状態となっていた。そこで、1993年(平成5)に婦人会より字の公民館連絡協議会へ「字ユー小を字で予算化して欲しい」と問題提起し、それが認められ翌年から字予算に計上されるようになった。字ユー小の炊き出しは、現在でも婦人会の各班長を中心に行われ、関係者から感謝されている。
また、字ユー小とは別に、以前より親戚や隣近所、隣組等で行われていた個人的なユー小が現在まで行われている所も多い。これは「ケートゥネーユー小」などと呼ばれ、仲間内で500円ずつ集め葬儀のある家へ持って行くなど地域の助け合いの精神で行われている。他地域から移住してきた者もこの習慣が残っていることに驚いたようだが、実際にユー小を受けたときにこのような地域からのサポート力にとても感謝していたということである。
*4 慰問袋は出征兵士を慰めるために、中に娯楽品や日用品などを入れて戦地へと送った袋のことで、千人針は千人の女性達が武運長久を願って一針ずつ赤糸の縫玉を縫った木綿の布で、肌身に着けると弾が当たらないと考えられ、慰問袋に入れて出征兵士に送った。(『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社刊参照)
*5 沖縄では、陣地構築や飛行場設営に、児童生徒が連日動員された。また、女子勤労挺身隊として一般家庭の婦女子を軍需工場などに動員した。(『読谷村史第五巻戦時記録上』読谷村役場発行参照)
*6「渡慶次婦人会歌」
*7「渡慶次子どもを守る歌」
*8『戦後沖縄通貨変遷史〜米軍統治時代を中心に〜』2004年 山内昌尚著 琉球新報社発行
1954年(昭和29)に事務所が高志保から渡慶次へと移され、人々の生活が少しずつ安定してくると婦人会活動も活発になり、「渡慶次婦人会歌」*6や「渡慶次子どもを守る歌」*7 ができた。婦人の地位と教養を高めるために毎月の定例会として「母の会」を開催し、レクリエーションを楽しんだり、優良婦人を表彰するなど活動内容も拡がりを見せ始めた。生活が落ち着くにしたがって、冠婚葬祭が派手になってきたので、お祝いと諸行事の簡素化を取り上げ、ごちそうは3品料理(ご飯、吸物、カラザカナ)とし、お祝儀は20円(B円)と定め、字の合同役員会にも提案し、議決へとつながった。
また、翌年の与那覇※※会長(勢頭(シール))の時には渡慶次小学校の校舎を借りて第1回目の「母の日」を開いた。当時の生徒会長は玉城※※(西勢頭(イリシール))で、生徒会主催で45名の渡慶次区出身の生徒が、母親との交歓会を持った。読書会や中学生との親子懇談会等も頻繁に行われるようになり、母親としての立場から児童生徒の健全育成にも貢献した。
1956年(昭和31)、渡慶次婦人会の活動の1つとして「生活改善部」が結成された。これは、この年に琉球政府によって設置された「新生活運動推進協議会設置規程」に連動するもので、その運動は琉球政府を中心に沖縄のあらゆる組織が一丸となって取り組むべきものであった。その内容からして婦人に関係することが多く、結果的には政府の生活改善課を中心に各地域の婦人会が本腰を入れて取り組んでいくようになっていった。婦人会員から希望者を募り結成されたが、当初は30名程で組織し、その頃はまだ衛生面にも関心が薄い時代だったので、「環境の整備」を目標に毎月1回清掃日を定め、各家庭を巡視した。
婦人会社会見学(1958年3月26日)
翌年1957年(昭和32)の福地※※会長(タル福地)の時、収支が予算式になった。会則の一部改正も行われ、副会長が次年度の会長となり、役員に手当てが支給されるようになった。支給額は会長8ドル、副会長・書記5ドル、幹部3ドルであった。こうした組織体制の下に広域的な活動を展開し、読谷村生活改善部発表会に玉城※※(次男加那玉城(カナータマグスク))が、家の光記事活用全国大会には山内※※(昌正山内(ショウセイヤマチ))が出場するなど、渡慶次部落内のみならず、村や県、全国の場で活躍する会員もいた。
1959年(昭和34)儀間※※会長(蒲儀間(カマージーマ))の時には、だんだんと派手になっていく冠婚葬祭などの行事を簡素化するため、生活改善グループと何度も役員会を持ち話し合いがされた。たくさんの行事の中でも出費の大きい生年祝を、字での合同祝にするという提案が通り、翌年玉城信昭区長(玉城小(タマグスクグヮー))の時より公民館で生年合同祝が開かれるようになった。
1960年(昭和35)に教育隣組が結成され、家庭学習や子ども達への生活指導等について盛んに討議された。婦人会でも教育隣組活動と連動して一段と活発な会活動が展開された。また、読谷村生活改善部発表会や琉球政府文教局指定婦人学級研究発表大会等の意見発表会へも金城※※(亀川之上(カミーカーヌイー))、与那覇※※(西白堂(イリシロー))、与那覇※※(勢頭(シール))、山城※※(池之畑(イチヌハタ))等多くの会員が積極的に参加し、婦人の発表力の養成に努めた。当区の活動実績が認められ、1962年(昭和37)村婦人会より、優良婦人会として表彰された。
翌年には、県下でもいち早く婦人会の高年部組織として「白百合会」が発足した。村内外からの問い合わせも多く、交流を希望する団体が多く訪れた。
1965年(昭和40)に校区婦人会が解消され、字と村とが直結した婦人会運営に変わった。以降は、優れた婦人会運営や字と婦人会との関係などを学ぶため、研修や他字の婦人会とも積極的な交流が持たれた。また、当区婦人会のリーダー養成のために初めての幹部研修も催し、婦人の教養向上に努めた。
1968年(昭和43)に若妻会・中年会・高年会(白百合会)の3つの組織が結成された。山城※※が高年会(白百合会)の活動について宇座公民館で発表するなど、渡慶次婦人会活動が盛り上がりを見せた。
翌1969年(昭和44)には、渡慶次婦人会創立50周年を迎え、山内※※会長以下全役員・会員が結束して記念事業に取り組んだ。そこでは記念誌発刊もなされたが、字単位で記念誌が発刊されたのは、村内でも初めてのことで、婦人会の活動の活発さが称賛された。そして、現在でも婦人会の伝統芸能の演目として受け継がれている「松竹梅鶴亀」はこの祝賀会において、初めて披露された。
初代「松竹梅鶴亀」のメンバー
初代踊り手は、松:福地※※(蔡明福地(サイメイフクジ))、竹:山内※※(蔵根小(クラニーグヮー))、梅:神谷※※(乗二神谷(ジョウジカマ))、鶴:渡口※※(渡口小(トゥグチグヮー))、亀:玉城※※が務めた。
その後、安田※※会長(前之川上(メーヌカーカン))の時、「松竹梅鶴亀」の衣裳を婦人会独自で購入する計画を立て、字からも100ドルの補助を受け衣裳を購入した。現在は字の備品としてその管理は婦人会に一任されている。
(5) 日本復帰後の婦人会活動―環境美化、リサイクル活動の展開―
沖縄県民の悲願である日本復帰の声が沖縄中からあがり、婦人会も子ども達の未来のために敢然と立ち上がった。厳しい激しい闘争の末、1972年(昭和47)5月15日、ついに日本復帰が実現した。ドル経済圏から円への移行、諸々の制度の変革で物価や交通機関などで値上がりがあり、経済状態は悪化した。婦人会では生活の防衛のために「自分の足下から」を提唱し、これまで旧暦、新暦共に行っていた正月を新正月だけ行うこととし、行事の簡素化運動なども積極的に行った。
会の会計の面でも、壁にぶつかり、当初ドルで計算していた予算案を途中で円に換算し、予算の立て直しが行われた。ところが、1ドル対360円で計算していたものが、交換の時点で1ドル対305円*8で換算され、予算が不足するなど頭を悩ませた。また、1月1日から12月末日で締めていた会計年度を4月1日から翌年の3月末日に改正した。そのためこの年度の役員は任期を3か月延長することになった。
翌年の復帰特別記念事業、若夏国体への参加に向け演技練習なども始まり、本番には演技に6名が参加、青年会と協力出演したエイサーにも60名の会員が参加した。
講演会や映写会などによって省資源についての意識が高まり、1974年(昭和49)与那覇※※会長(金細工(カンジェークー))の時には、節約の日を決め、その日は冷蔵庫に入っている物で食事を作ってお店に行かないようにする、といった「物の節約運動」を展開した。1979年(昭和54)知花※※会長の時には、ゴミとして捨てる物の中から、再利用できる物を見いだし、物を大切にする意識を高めることを目的とし、古紙回収へと乗り出した。各家庭から持ち寄ったり、または係によって回収され倉庫に集められた古紙は、婦人会高年部や幹部を中心により分けされた。新聞・チラシ・段ボールその他をより分ける作業は大変な仕事であった。古紙を詰めた段ボールを乗せた車を運転し、路上駐車されている車にぶつけ冷や汗をかいたこともあったが、古紙回収への理解から「なぁしむさー」と許してもらった。各家庭のみならず、学校、農協、商店街等広い範囲へ回収に赴き、全区民が協力した古紙回収活動はかなりの収益を上げ、会の活動資金(特に研修費)、子ども会への援助、65周年記念事業の資金に充てられた。この古紙回収は、1986年(昭和61)儀間※※会長の時に古紙価格の低下により、一時中止になるまで続けられた。
また、三役と幹部数名で各家庭を廻る清掃検査が行われるなど美化活動も活発になり、1980年度(昭和55)第10回全沖縄婦人連合大会美化コンクール団体の部で優秀賞の表彰を受けた。
盛んだった古紙回収
その後も、各種講習会や講演会、パネルディスカッションなどの活動を展開し、1984年度(昭和59)山内※※会長(昌正山内(ショウセイヤマチ))の時、65周年を迎えた。記念式典を開催し、記念誌も発刊した。記念式典では婦人会員総勢79名での創作演劇「時代の流れ」を披露し、大成功を収めた。
スポーツ活動にも積極的に取り組み、毎年の村婦人スポーツデーには多くの婦人会員が参加した。1991年(平成3)山内※※会長(蔵根小(クラニーグヮー))のときに開かれた区民ソフトボール大会のオープン試合で、ウラシマソフトボール愛好会と熱戦を繰り広げた。
1993年(平成5)大城※※会長は公民館連絡協議会において、字ユー小(グヮー)を予算化してもらうことを提案し、次年度より予算計上された。炊き出しは婦人会が責任を持ってあたり、現在でもその習慣が続いている。
2000年(平成12)仲村渠※※会長(又助白堂(マタスケシリドゥ))の時、80周年を迎え、記念式典の開催並びに記念誌の発刊、また記念碑が建立されるなど、創立から現在まで多くの活動を展開している。記念碑に書かれた文は区民から公募し、山城※※(牛池之畑(ウシーイチヌハタ))の短歌が選ばれた。
婦人会80周年記念碑(揮毫者大城※※)
村おこし 灯をともしてぞ 幾星霜
明日に継承えん その志
明日に継承えん その志
区民運動会では、昼食をとるため自宅に帰る人が多かったため、午後からの種目に支障をきたしていた。そこで、2001年(平成13)与那覇※※会長の時から、昼食としてカレーライスやハヤシライスなどの炊き出しをし、区民に喜ばれ、その後よりずっと続いている。
同年、第12回全国「みどりの愛護」のつどい団体の部で県知事賞を受賞し、翌2002年(平成14)与那覇※※会長(与那覇(ユナハ))の時にも第32回全沖縄美化コンクール優秀賞を受賞、また第13回全国「みどりの愛護」のつどい団体の部でも功労賞・国土交通大臣賞を受賞するなど、会員が一致団結し美化活動を推進し、地域の活性化にもつながっている。
(6) 男女共同参画社会への進出
1994年(平成6)には女性の行政委員として仲村※※(蒲野国小(カマーヌグニグヮー))、儀間※※(蒲儀間(カマージーマ))、友江※※(友江(トモエ))が選出された。また、読谷村議会議員選挙でも仲村律子が、戦前、戦後を通して初の女性村議会議員として当選し話題となった。村議会においては貴重な女性の1議席となり、女性としての視点、母親としての視点から青少年問題や老人福祉の問題、女性の問題、地域で抱えている諸問題を提起し、村民福祉向上のために尽力した。
それ以降、毎年2〜3名の会員が行政委員として選出され、1998年(平成10)には字の監査委員に行政委員代表として、大城※※(新屋知花次女(ミーヤーチバナ))が選出された。また、2004年(平成16)には行政委員副議長に山内※※が選出された。このような動きは男女共同参画社会とされる現代においても、見本となるものであり、渡慶次婦人会から婦人会の枠を超え、行政の場でも多くの会員が活躍している。
文化面でも婦人会員の活動は活発で、文化財保存委員として大城※※(不動(フルー))、玉城※※(後当下庫理(クシトーチャグイ))、友江※※、山内※※等が活躍している。渡慶次まつりや敬老会、読谷まつりや村婦人会主催の演芸のつどい等、字内外の行事には多数の会員が創作舞踊や歌劇、「イサヘイヨー」などに出演している。
時代の変化と共に、婦人会員の組織離れが目立ち会員数も減少傾向にある。しかし、婦人会の発足と共に、幾多の時間と労力を費やしてきた先輩方の業績を顧みたとき、生活の多様化、価値観の違いはあるにせよ、これからも明るい家庭、住みよい地域づくりのため、各種団体と連携を密にしながら、共に歩んで発展させていくことが期待される。
〔注〕
*1『読谷村婦人会70周年記念誌』読谷村婦人会発行 1986年 参照
*2「皆さんようこそご出席下さいましてありがとうございます。今日は渡慶次婦人会の総会ですので、ごゆっくりどうぞ。」の意味。
*3 字ユー小(グヮー)は村落共同体の相互扶助の役割を果たし、婦人会活動の要として戦前から実施された。
当初は、穀類(粟・マージン等)を隣組の婦人を中心に各戸1合ずつ集めて提供していた。公民館からの放送や新聞掲載なども無い時代のため、婦人会員が「○○さんが亡くなられました」と連絡しながら各戸を廻る区民への連絡係の役目も果たしていた。戦争直後は役員会の協議により各戸から米1合を徴収すると決め1度実施したが、当時は米も配給制であったため、不足している状態で集められず、1円(B円)を徴収することで継続した。時代が落ち着いてくると、また米1合ずつを集めるようになるが、米の種類が各家庭で違うなどの問題から、またお金30円を徴収するようになった。1戸あたり30円を徴収すると、合計で8000円〜9000円となった。食事の材料を購入して余った残金は、後日会長が香典としてお供えした。字ユー小は大正、昭和と引き継がれ、婦人会によって徴収を行っていたが、1軒1軒を訪問しての徴収は、時間的・物理的に難しい状態となっていた。そこで、1993年(平成5)に婦人会より字の公民館連絡協議会へ「字ユー小を字で予算化して欲しい」と問題提起し、それが認められ翌年から字予算に計上されるようになった。字ユー小の炊き出しは、現在でも婦人会の各班長を中心に行われ、関係者から感謝されている。
また、字ユー小とは別に、以前より親戚や隣近所、隣組等で行われていた個人的なユー小が現在まで行われている所も多い。これは「ケートゥネーユー小」などと呼ばれ、仲間内で500円ずつ集め葬儀のある家へ持って行くなど地域の助け合いの精神で行われている。他地域から移住してきた者もこの習慣が残っていることに驚いたようだが、実際にユー小を受けたときにこのような地域からのサポート力にとても感謝していたということである。
*4 慰問袋は出征兵士を慰めるために、中に娯楽品や日用品などを入れて戦地へと送った袋のことで、千人針は千人の女性達が武運長久を願って一針ずつ赤糸の縫玉を縫った木綿の布で、肌身に着けると弾が当たらないと考えられ、慰問袋に入れて出征兵士に送った。(『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社刊参照)
*5 沖縄では、陣地構築や飛行場設営に、児童生徒が連日動員された。また、女子勤労挺身隊として一般家庭の婦女子を軍需工場などに動員した。(『読谷村史第五巻戦時記録上』読谷村役場発行参照)
*6「渡慶次婦人会歌」
作詞 知花※※
作曲 新崎※※
編曲 塩川※※
1) カタノー浦和に 吹くそよ風は
海山の香を のせて清けく
望あふれる はらから吾等
平和の鐘を いざ打ちならし
つどえばたのしさ 笑顔はそろう
吾等は渡慶次 婦人会
2) 照る日曇る日 いついつまでも
ひとすじの道 かけ声高く
明るく生きる はらから吾等
平和の鐘を いざうちならし
つどえばきららに 瞳はもえる
吾等は渡慶次 婦人会
3) 美し村人 この島浦に
心ひかれて あいよる力
スクラム組んで はらから吾等
平和の鐘を いざ打ちならし
つどえばみんなの 胸はふくらむ
吾等は渡慶次 婦人会
作曲 新崎※※
編曲 塩川※※
1) カタノー浦和に 吹くそよ風は
海山の香を のせて清けく
望あふれる はらから吾等
平和の鐘を いざ打ちならし
つどえばたのしさ 笑顔はそろう
吾等は渡慶次 婦人会
2) 照る日曇る日 いついつまでも
ひとすじの道 かけ声高く
明るく生きる はらから吾等
平和の鐘を いざうちならし
つどえばきららに 瞳はもえる
吾等は渡慶次 婦人会
3) 美し村人 この島浦に
心ひかれて あいよる力
スクラム組んで はらから吾等
平和の鐘を いざ打ちならし
つどえばみんなの 胸はふくらむ
吾等は渡慶次 婦人会
*7「渡慶次子どもを守る歌」
作詞 知花※※
作曲 新崎※※
編曲 塩川※※
1 残波あらなみ のりこえて
村のあとつぎ 子宝を
すなおにのばし 育てよう
渡慶次婦人の やさしさで
2 お母さんてば お母さん
子等の先幸 守りつつ
強く正しく 育てよう
渡慶次婦人の かしこさで
3 五月五日の せいくらべ
のびゆくすがた ながめつつ
大きなのぞみ もたせよう
渡慶次婦人の すなおさで
4 お早う お休み おきなさい
日々のしつけに 心して
よりよい人に 成しましょう
渡慶次婦人の はたらきで
5 女の道は 一つ道
人の世のため 国のため
子宝世つぎ でかそうよ
渡慶次婦人の 団結で
作曲 新崎※※
編曲 塩川※※
1 残波あらなみ のりこえて
村のあとつぎ 子宝を
すなおにのばし 育てよう
渡慶次婦人の やさしさで
2 お母さんてば お母さん
子等の先幸 守りつつ
強く正しく 育てよう
渡慶次婦人の かしこさで
3 五月五日の せいくらべ
のびゆくすがた ながめつつ
大きなのぞみ もたせよう
渡慶次婦人の すなおさで
4 お早う お休み おきなさい
日々のしつけに 心して
よりよい人に 成しましょう
渡慶次婦人の はたらきで
5 女の道は 一つ道
人の世のため 国のため
子宝世つぎ でかそうよ
渡慶次婦人の 団結で
*8『戦後沖縄通貨変遷史〜米軍統治時代を中心に〜』2004年 山内昌尚著 琉球新報社発行